3-15 ようこそ外政室(後)

「薬学書……ですか」


「医学に関しては手術とか専門性も高いし、なかなか書面をまとめるのは難しいと思うんだけど、でも薬の調合や薬草の区別方法なんかを纏めた本を作る事なら、可能じゃないかと思ってて」


「それは……」


「書庫にある植物図鑑ひとつとっても、実は国によっては間違った効能が書かれている物があってね? 多分、他にも各国で絶対に間違って伝わってる調合とかあると思うの。国によって薬の効き具合が違うとか、後々問題になりそうでしょ? だからまず、各国の植物図鑑や薬学書の翻訳を進めて、貴方にその調合率や効き目を確かめて貰いながら、ゆくゆくは大陸共通の薬学書を編纂へんさんしたいな――と」


「…………」


 一瞬ユーベルは、この目の前のの令嬢が何を言っているのかが分からなかった。


 黙り込んだユーベルに、激務と腰が引けたのかと思ったらしいキャロルが、慌てて両手を横に振る。


「もちろん一人でやれって言ってるワケじゃなくって! 各国の薬草、植物図鑑に関しては、通常業務の合間に外政室の皆に手分けして翻訳していって貰うつもりでいて……後の調合確認に関しては、典薬部がになったら、合同でやって貰おうと思ってるから……まぁ多分、貴方が解毒剤に注力して、他の皆が翻訳こなしてる間に良い感じに典薬部むこうも淘汰されてると思うのよ」


 さっきフリード達が運んでいた本はそう言う事だったのかと、内心でユーベルは納得していた。


「まあ、とりあえずは解毒剤の調合レシピの話をするだけど……カーヴィアル語で作成して貰って良いかな?」


「え?」


 さっきから一言以下の言葉しか発する事が出来ていないユーベルを横目に、キャロルはまずは自分の説明を優先させることにしたらしかった。


「万一に備えて、見られても分からないように、カーヴィアル語。どうもこの宮殿内では、出来る人限られているっぽいから。勝手にどこか売り飛ばされても困るし。あともし早めに完成したら、ハヤブサとかで旅先に送って欲しいんだよね。使えるものなら交渉材料に使いたい」


「キャロル様は、完成が間に合うとお思いですか?」


 そう聞いたのは、ユーベルではなくイオだ。

 キャロルは「うん?」と、小首を傾げた。


「彼の頭の中にはあるって話だし、追加データでブラッシュアップして、何回か実験するとすれば、上手くいけばひと月かからないと思うのよね。そうすればワイアード辺境伯領あたりで受け取れるかな、と。まあ究極の理想論だけど」


「……なるほど」


「多分薬学書の編纂自体は、3ヶ月や4ヶ月で出来るモノじゃないと思うのよ。出来れば民間伝承も調査して、病につけ込むような怪しい連中は撲滅したいしね」


 キャロルの言葉に、ハッとユーベルが、目を見開く。


 彼の所にも、妹の治療をうたう怪しい連中が、よく押しかけてきていたからだ。


「……そうですね。はい、あんなふざけた連中は撲滅したいです」


「おお、前向き。じゃあ留守中は皆と協力して、出来るところから取りかかってくれる? その場で判断出来ないような話が生じた時は、先送りしておいてくれれば、戻ってから確認する」


「承りました、室長」


「あと、こっちはちょっと個人的なお願いなんだけどね……傷薬として、効能ある植物なんかの情報を、可能な限り集めておいて貰えないかな」


「個人的なお願い……ですか?」


 個人的に薬を調べると聞いたユーベルの視線が一瞬険しくなったが、キャロルが少しシャツの右側をずらして、肩口辺りをユーベルに見せるよう、身体を傾けた。


「な……っ⁉︎」


 あちらこちらに散る、赤い痕キスマークはさておいて、医療に携わる者として、明らかに縫合の痕がある刀傷の方に目を奪われた。


「まぁ、こっちの彼にも似たような傷はあって」

「刺客……とかですか」


 これほどの傷を持つ令嬢を、忌避もせず、むしろ寵愛して朝まで抱き潰しているあたり、皇帝側にも怪我の原因に心当たりがあるしか思えない。


 薬の調剤師としてのユーベルでさえ、危険はあったのだ。


 宮殿に住む次期皇妃ともなれば、平民風情には思いもよらない権力争いがあってしかるべきだった。


「レアール侯爵領お抱えの医師って言うのがかなり優秀な人で、縫合の技術はもちろん、縫合した上から、卵の黄身と石灰を混ぜた、本人独自の煉薬ねりぐすりを塗ってくれていて。有難い事に何とか腕は繋がったんだけど」


 刺客に関して、そうとも違うとも言わず、キャロルは拳を握ったり、開いたり、してみせた。


「まぁ、こう言う技術がもっと共有されれば、助かる人も増えるだろうなぁ……と思って編纂を思い立ったのが一点と、もう一点は――まだこの腕が、思うように動かないのが歯痒くて」


 つい先日、貴族子弟達と手合わせをしながら、以前の自分がふるえていた通りに剣が振えない事に、焦りと不安が浮かんだのだ。


「これじゃ、いざと言う時に陛下をお護り出来ないかも知れない。従前まえの自分を分かっている分、これじゃダメだ……と思っていて、ね」


 キャロル様……と、イオも苦しげに顔を歪ませている。

 同じ焦りは、イオにもある筈だった。

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