3-14 ようこそ外政室(前)
翌朝。
晴れて宮殿内外政室の正式職員となったグラン・ユーベル青年が、念の為にと始業時刻よりもかなり早めに出仕したつもりが、既に外政室には複数の職員が在席していた。
「お……はよう……ございます……」
「よぉ、ユーベル。早いな? もっとゆっくり、エリスちゃんと過ごしてから出仕しても良いんだぞ?」
元は近所に住んでいた幼なじみチャス・フリードが、そう言って書庫から持ち出してきたらしい本を抱えている。
ちなみにエリスとは、ユーベルの妹の名前だ。
「いや……お前の方が、よっぽど早いだろう……」
呆れたように呟くユーベルに、フリードも
「ああ、まあ、俺も普段はここまで早くないんだ。ただ室長が、明後日から陛下と外遊に出られる事になってな。不在の間に進めておいて欲しい事があるって事で、ちょっとバタバタしているんだ」
「外遊……」
そう言えば昨日、宰相室でそんな事を聞いたように思う。
「あの人……本当に、皇妃候補なのか……」
昨日も、皇帝陛下の寵愛を一身に受けているかのような周囲の態度だったが、あまりにもユーベルが知る貴族令嬢のイメージと違い過ぎて、まだピンときていないと
言うのが正しい。
「候補じゃなくて、既に次期皇妃様だユーベル」
机に本を置きながら、フリードがそう訂正した。
「即位式典の後の夜会で、陛下がそう断言されたらしいからな」
「あー……」
宰相室でユーベルは、それも聞いた気がした。
「まぁ、宮殿奥深くに鎮座する深窓のご令嬢をイメージしてると、確かに調子が狂うけどな。むしろ、いざと言う時の陛下の代理に特化されていると思えば、少なくとも俺は納得する」
「……なるほど。ところでその本は何だ? 俺も何か手伝えるか?」
「ああ、これは――多分室長は、コレをお前に説明するつもりなのかも知れないな。お前が来たら、書庫に来させろと言われてる」
「そうか、分かった」
「あっ! ちょっと待て、せめてあと30分待て、ユーベル! 今からはあんまりだ」
「は?」
ああ……と、何故かあちこちで、納得したような声が上がっている。
「とりあえず、今出仕している全員を紹介する。その後はお前も本を運ぶのを手伝え。きっかり30分たったら、俺が室長の所に案内するから」
「え……」
「大丈夫だ! 出仕が遅いとか、ギリギリだとかは
「……?」
見れば周囲の文官達も、黙って大きく肯いている。
初日から同僚と摩擦を起こすつもりはないユーベルは、不審に思いながらも、大人しく彼らの提言に従う事にした。
――そして、30分後。
書庫に突貫で造られた、薬の精製スペースの横に置かれた長椅子で、昨日よりも存在を主張している、
……それはフリード達でも察しがつく筈だ。
「……ちょっと納得した……」
「ユーベル文官?」
水差しとコップを持って来たところで、ユーベルの呟きを聞き咎めたらしいイオルグ・ラーソンに、苦笑いめいた表情を浮かべてみせる。
「いえ。ソユーズ宰相書記官様が……
「……何を言ってるんだ、あの方も……」
この外政室で、キャロル以上に敵に回してはいけない人物だとフリードに教わった
「それはそうと、今のうちに不足している物や不備はなないか確認をして貰えるか。そう頻繁に〝典薬部〟に素材の融通を頼める訳じゃないんだ。――今は、まだ」
「あっ、はい」
乳鉢や乳棒はもちろんの事、筆記用具や、事前にユーベルが指定したいくつかの素材なども、所狭しと置かれている。
「ありがとうございます。大丈夫そうです。ただ出来ましたら、書き写し可能な紙や書くものをもう少し頂けますか。まずは設計書を書き起こした上で――一刻も早く解毒剤を完成させます」
「承知した。薬については門外漢だから、宜しく頼む。もちろん無理強いをするつもりはないので、何か行き詰まるようなら遠慮なく声をかけて欲しい」
ただ強要されるだけだったベルトラン侯爵領での作業と違って、この職場は、それ
ぞれが出来る事に特化した、無理のない働き方を行おうとしている。
フリード曰くは、室長交代直後の過渡期にあたっているため、しばらくはバタバタするだろうが、いずれ落ち着く筈――と言う事だった。
キチンと己の領分に応じた仕事をすれば、次年度の給与にも反映させると言う事らしい。
自分自身を鼓舞するように頷くユーベルを横目に、イオが遠慮なしに、上司の肩を揺さぶっていた。
「キャロル様、そろそろ始業時刻です」
「……分かった……」
「ユーベル文官も、もう来ていますよ。今後の事をご説明なされるんでしょう?」
「あー……うん……」
「冷水に浸したフェイスタオルと、お飲みになる為のお水です。こちら、どうぞ」
「……ありがと」
ノロノロと身体を起こしながら、キャロルがイオからフェイスタオルを受け取っている。
執事の如く世話を焼くイオにも驚きだが、次期皇妃と言われている少女が、飾り一つない長椅子で仮眠をとっているのも、どうなのか。
ユーベルが、複雑極まりない表情を見せている間に、タオルで目元を冷やしていたキャロルが、少しスッキリしたような面持ちで、顔を上げた。
「――さて、改めまして外政室へようこそ、ユーベル文官。職員一同、貴方を歓迎します」
「いっ、いえ、こちらこそ! 妹を保護して下さり、感謝致します」
「ああ、その御礼は
最初、病弱な妹に仕事など――と思ったユーベルだったが、確かにキャロルの言う通り、昼間と言えど居住区に一人残されるのは、防犯面から言ってもいただけない。
何より、これまで外と隔離されたような生活を送っていたエリス・ユーベルは、得意の裁縫で給金まで貰えると言う事を、とても喜んでいた。
「生き甲斐も、
「……有難うございます。いえ、これは妹を、明るく笑えるようにして下さった御礼です。御恩は解毒剤の完成をもってお返しする所存です」
「いやいや、それだと薬作ったらもう用がないみたいになっちゃうからやめて? 実はね、その後にお願いしたい仕事も山積みなのよ」
え……と、思わずユーベルがキャロルを凝視すると、あははと乾いた笑い声が返る。
「大丈夫、大丈夫。妹さんとの一家団欒を邪魔するような悪どい事とか、殺人的な量の仕事とかを頼むワケじゃないから」
説得力が……と言いかけたイオの脇腹を、キャロルが小突いているのは見なかった事にした方が良いのかも知れない。
「あのね。これを機に、効用の統一された薬学書を作りたくて」
聞き慣れない言葉に、ユーベルが小首を傾げた。
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