2-10 斜め45度上の事態

「失礼しま……す?」


 右手と右足が一緒に出そうな勢いの若い職員に続いて、キャロルが宰相室に足を踏み入れると、中にいたのは部屋のあるじと、補佐の書記官だけではなかった。


「お……レアール侯爵閣下」


 お父様、と言いかけて止めたのは、ここが宰相室である事もそうだが、父であるデューイ・レアールと、向かいにもう一人腰かけていたからである。


「ストライド侯爵閣下まで……」


 こうなると、迂闊に背後で顔を痙攣ひきつらせている、グラン・ユーベル青年の話をしてしまって良いものか、躊躇ためらわれる。


 キャロルの一瞬の躊躇ちゅうちょと、背後に控える男が目に入ったエイダルが、僅かに片眉を上げた。


「どうやら、お前も私に話があったようだな。ストライドに関しては、一連の詫びに来たついでに、話にから、その関連での話なら、そのまま続けろ。私が許可する」


「えっ」


 キャロルから視線を向けられたストライドは、それまでに何があったのか、かなり疲弊した力ない微笑を、キャロルへと向けた。


「貴女のその細い両肩に全てが乗ると言うのも公国ルフトヴェーク貴族の名折れですし、原因の一端は我が一族にもありますから、あまり気に病まれませんよう」


「…………」


 デューイですら苦い顔で視線を逸らしているところを見ると、キャロルがここに来るまでに相当のやりとりがあった事が推測された。


 後で宰相書記官サマソユーズさんにでも聞いてみようと思いながら、キャロルも頭を切り替える事にした。


「では単刀直入に言いますけど、宰相閣下、彼を公国くにの保護下に置いて頂きたいんです」


「何だと?」


「彼には、例の〝ポンムヴェール〟を精製、あるいは解毒薬を精製出来る技量うでがあります。そして現在進行形で、クラッシィ公爵家あるいは、国内の裏組織の者から狙われているようです。既に放っておける状況ではなくなっていると見て、陳情に上がりました」


「……っ」


 キャロルを除く、この部屋の全員が息を呑んだ。


「何故……俺は、そこまで言った覚えは……」


 ユーベル当人も、困惑を隠しきれない様子で、キャロルを凝視している。


 既に面接は終わったと、キャロルも明言しているため、ユーベルもルフトヴェーク語だ。


「うふふー。さっき、周囲が物騒かどうか尋ねた時、随分と動揺してたじゃない。それに、助けて下さいとも言ってたし。おまけに、貴方が出稼ぎ先ベルトランで、調と言われていたのなら、尚更他に理由はないもの。今の、どこか間違ってた?」


「…………いえ」


「ちなみに、解毒薬っていつ頃出来たの? それも、もう流通しちゃってる?」


「流通はまだ……途中から、ベルトラン侯爵が給与を出し渋られるようになって……無事に公都ザーフィアで待つ妹の所に返して貰えるかどうかさえ、雲行きが怪しくなってきたので……開発に成功した事を黙って、中古で売り飛ばせそうな薬を屋敷の設備で大量作成した後、屋敷を飛び出したんです。たかが調剤師が1人いなくなったところで、誰も気付かないだろうと思っていたのですが――」


「あの、ハゲ侯爵――ゴホン、あれ⁉︎ じゃあまだ、解毒薬の完成品を誰も持ってないの⁉︎」


「……今はまだ、ここに」


 前半は気のせいだと思う事にして、己の頭を指したユーベルに、キャロルも目を見開いた。


「……それは、狙われるって」

「おい」


 こめかみを揉みほぐしながら、低い声を発したエイダルに、キャロルが慌てて振り返った。


「わあっ、すみません公爵閣下! そう言う訳でですね――」


「何が『そう言う訳』だ! 勝手にお前らだけで話を完結させるな! 毎回毎回、報告をすっ飛ばして、連絡か相談しか寄越さんから、こっちの予期しない展開はなしが、45から降ってくるんだ! いずれ私がいなくなったら、どうするつもりだお前は!」


 一応、早めの報告に来たつもりが、結局エイダルからは怒鳴りつけられ、キャロルは亀のように首を縮こまらせた。


「……今、生まれて初めて、公爵アンタに心から賛成したくなった」

「レ、レアール侯……」


 父親も結構な暴言を吐いていると思ったストライドだったが、エイダルの背後に立つ宰相書記官ファヴィルの「リヒャルト様に報・連・相の何たるかを説かれるようではいけませんよ、キャロル様」との発言まで聞くに至っては、もう自分は口を挟むまいと、密かに心に決めた。


「ソユーズ、貴様……」


「常にのリヒャルト様と、良い勝負ですよ、キャロル様は。事態が斜め45度上から降ってきたかどうかすらおぼつかない凡人にも、分かるようにご説明頂きたいですね」


「何が凡人だ! 存在自体が斜め45度上の貴様に言われる覚えはないわ!」

「……それで、キャロル」


 長年、冷酷宰相とも鬼畜宰相とも言われるエイダルの補佐を、にこやかにこなし続けるこの書記官は、確かに感情が読めないところがある。


 見た目以上の腕っぷしを持っている気がして仕方がないデューイだが、敢えて自ら関わる事はせず、この時も2人のやりとりは「無いモノ」として、娘に声をかけていた。


「……アレを無視出来るお父様が、凄いです」


 キャロルの呟きは、本人やストライドに届く前に消える。


「この男は、例の媚薬ポンムヴェール量産のために公国から拉致された薬師で、カーヴィアルのクラッシィ公爵家直轄の工場か何処かから、命からがら逃げ出してきた……とでも?」


 話を進めるきっかけとして、今の会話から想像が出来る最大限をまとめて、水を向けるデューイに、キャロルは僅かに小首を傾げた。

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