1-2 試験をします

 キャロル・ローレンスとしての生き方から、キャロル・レアールとして生きる事への方向転換を余儀なくされた時、口にしないまでも、キャロルが絶望の淵に立たされていた事は確かだった。


 生きる目的を見失いかけていたキャロルに、キャロル・レアール・ルフトヴェークとして、全てを共に、一から積み上げていこうと――差し伸べられた手を、キャロルは取った。


 その決意と覚悟を、貴族権利に胡座あぐらをかくだけの給料泥棒に、軽視されるいわれは決してない。


「しばらく周囲が騒がしいかも知れないけど、宜しくね? まさか、自重しろとは言わないよね? 一緒に〝死の国ゲーシェル〟の門の前から、引き返して来た者同士なんだから」


 言外に、ここで嫌味を言われているくらいなら、カワイイものだと言っているキャロルに、イオの背筋が、うっすらと寒くなる。


「必要とあらば、止めはしません……が! 陛下の不興を買わない範囲で、とはお願い申し上げておきます。ヒューバート将軍ではありませんが、私が殺されます」


「大げさなんだよ! ヒューも、イオも」


「そう思うのはキャロル様だけですよ……」


 25歳を過ぎたばかりの元ルーファス公爵、今や若き新皇帝となったエーレ・アルバート・ルフトヴェークが、即位式典の翌日の夜会において、レアール侯爵令嬢以外の妃は不要と断言した話は、まさか本気で――と、疑い半分の眼差しを持たれながらも、既に周知の話となりつつある。


 そして、当のキャロルに近い位置にいればいるほど、よくぞ後宮に閉じ込めずに耐えているものだと、いっそ感心してしまう程のエーレのキャロルへの溺愛ぶりがの当たりになり、父親であるレアール侯爵が娘を強引に皇妃にねじ込んだとの陰口と、目の前の現実との乖離の激しさに、頭痛を覚えてしまう人間が続出しているのだ。


 エーレ本人にも、岳父となるレアール侯爵にも、おもねる隙を見出せない貴族達が、徒党を組んでキャロルの方へと悪意を向けてくる可能性は十二分にあったのだが、問題はキャロル自身にも、やられたらやり返せるだけの、頭脳も腕もある事だった。


 つい最近までカーヴィアル帝国で暮らしていたがために、ルフトヴェーク公国社交界においては、公式行事以外に顔を出さない父親以上の幻の存在、レアール侯爵の掌中の玉、次期皇帝に嫁がせる為だけに、隠し通してきた……等々、とにもかくにも「深窓のご令嬢」扱いで、キャロル本人の情報は、未だ他の貴族たちには、全く出回っていないのだ。


 この認識の乖離が、今後騒動トラブルを増やしていくであろう事は、キャロル本人も、その周囲も、大方の予想がついていた。


 ただ、今日こんにちに至るまでの波乱の日々を思うからこそ、怪我をせず穏やかな日々をルフトヴェーク公国で過ごして欲しいと願うエーレの過保護、溺愛ぶりが、キャロル以外の周囲をドン引きさせる程に、半端がない。


 もし、それと正反対と言えるようなが起きてしまったあかつきには、エーレの怒りにどれほどの火がつくのか。


 昔からの部下達でなくとも、周りは気付き始めていた。


 キャロルが、多少の危険をものともしない事は分かっていても、ここに至るまでの経緯――片腕を失くしかけ、死の淵を覗きこんだ程の怪我を負った事を思えば、案じるなと言う方が難しい。


 恐らくキャロル本人だけが、それをまだ十分に、理解出来ていない。


 近しい立場にいる、イオやヒューバート達が、間に立たされ、とばっちりを喰らうのだ。


「じゃあとりあえず、への報告書、書きかけようかな」


 そんなイオの苦悩を知ってか知らずか、キャロルは、いっそ暢気のんきとも言える口調で、目の前の書類に手を伸ばす。


「報告書……ですか?」


「そう。各言語ごとの部署セクションがあるのはまぁ良いとしても、まともな翻訳も出来ない人がそこにいるとするなら、それは放置しておけないし、逆に、優秀なのにすくい上げられていない人たちがいるなら、それは公国くにとして、囲いこんでおかないと……多分、エイダル宰相――公爵閣下が見極めて欲しいのは、そう言う事なんだろうな、と思って」


 再び部屋を一瞥して、キャロルは深々と、ため息をついた。


「ま、いいか。ええっと……それじゃ、いったん、このラーソンきょうが訳し終わった時間を区切りとして、皆にも訳して貰う事にします」


 部屋の奥まで聞こえるように声をあげたキャロルはここで、実は密かな言葉の罠を仕掛けていた。


 訳された書類を、誰が最終確認するのかを言わずに、ただ、宰相位にあるエイダル公爵に、報告書を書くと言ったのだ。


 受け取り方によっては、翻訳の正誤確認すら、エイダルに丸投げしようとしているように、聞き取れてしまう。


 また、エイダルに報告書を書くと言った事で、キャロルが全ての訳に目を通せる語学力があると、逆に気付く者も出てくる。


(アタマの回転が早いの、だーれだ?)


 嫌味と憎悪を受け流したまま、キャロルは口元に緩い笑みを浮かべた。


「あの……キャロル様、本当に、私を基準に?」


 念のためにと、イオが確認してみるが、キャロルの表情は、変わらなかった。


「多分、私と同じ――とは言わないにしろ、近い立ち位置と思われている貴方イオも、どれほどのものかと、に思われている筈だから、諸々都合が良いかと思ったんだけど?」


「……火薬庫に松明たいまつを放り投げるおつもりですか」

「それ、自分で言う?」


 生粋の貴族達からすれば、イオは「レアール家の権力で成り上がっただけの平民」の域を出ず、平民達からすれば、その腕を買われて、叙爵までされた元平民、言わば「憧れの存在」だ。


 どちらから見ても文句が出ないような状況にしておく必要は、もちろんあるし、双方のカンフル剤となる必要もある。


 そして、今は。


「まぁ、ならケンカの売り甲斐もあると思いましたから、ここはご意向を汲んで、最大限の事はしますよ」


 乗っかってるよ、あの人……と、どこかから聞こえた小さな声は、イオは敢えて黙殺する。


「そう? それは嬉しいな。じゃあ何語をやる?」


 5枚の紙を、カードゲームの如く、片手で持ちながら小首を傾げたキャロルに、イオは迷いなく、リューゲ自治領標準語の書類を、手に取った。


「リューゲ……」


「私やキティのいた村は、公都ザーフィアよりもむしろ、リューゲ自治領との国境に近い程ですからね。方言はリューゲの影響を受けがちで、多少は分かると言ったところでしょうか」


「そうなんだ」

「あくまで、多少――ですよ」


 と、イオは言った筈だったのだが、紙一枚分の他国言語の文書を、30分もたたない内に手渡しに来たのだから、それはキャロルでなくとも、周囲を驚かせるには十分だった。


 知っている単語から文脈を想像して、繋ぎ合わせただけだと本人は言うが、これは確実に、国語教師だった「叶柊已」時代の文章力の賜物たまものだろう。


 訳された言葉自体が、上品で、綺麗なのだ。


 多少、熟語の違訳はあるものの、文章全体に影響を与える程のものではない。


「うん、90点」


「ありがとうございます。出来れば、どこがマイナス要素だったのか、後学のために教えて頂きたいですね」


「オッケ。じゃあ、後であか……色修正して戻すね」


 キャロルはうっかり、日本で生活をしていた頃の、通信教育の○○先生、を口にしかけたのだが、日本にいた時期が、キャロルと二十年前後異なっている彼が、その事を知らない可能性に気が付き、慌てて言い方を変えた。


「じゃあ、とりあえず皆の訳文を回収してきてくれる? 皆さんもお疲れ様でした。その訳を渡して頂いたら、通常業務に戻って下さって結構です」


 そうしてキャロルは、イオが回収してきた各国語別の箱を、机の端に互い違いに積み上げると、自分の目の前には、三つの空き箱を並べて、あっと言う間に書類の仕分けを始めた。


 イオの翻訳書類も、右の箱にしっかりと入れられている。


「キャロル様、これは……?」

「うん? 合格、保留、問題外――的な?」


 書類を仕分ける手を止めずに、さらりとその意図を口にしたキャロルに、部屋の中の空気が変わった。

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