エールデ大陸年代記2~雪景の彼方に君を想う~

渡邊 香梨

エールデ・クロニクル2

第1章 過去と言う名の棘

1-1 外政室配属初日

 その少女が足を踏み入れた時、一瞬にして、部屋の空気がピリピリと、緊張と嫌悪の入り混じった空気へと変わった。


(久しぶりだなぁ……この感じ)


 カーヴィアル帝国の高等教育院を卒業して、国立士官学校に入学した当初、皇太子アデリシアに目をかけられている生意気な平民――として、既に周囲から目をつけられていたキャロルが、入学初日に感じていた空気と、浴びせられた視線が、ちょうどこんな感じだった気がする。


 もうすぐ二十歳はたちになる今は、ルフトヴェーク公国で、宰相配下の外政室室長として、大陸全土の国家情報を取り纏めるよう、宰相たるエイダル公爵から命じられた末に、今日、実務初日の顔出しをした――訳なのだが。


「……女が政務に口を出すとは」

「陛下の側で大人しく夜伽よとぎだけしていれば良いものを」

「後継者を作る方が、余程重要だろう」


 朝から性的いやがらせセクハラ全開。


 どの国でも、男の脳が考える事は一緒なのかと、あまりの低次元ぶりに、キャロルのこめかみに、知らず青筋が立った。


「陛下は、我々外政室の職務を軽んじておられるのか」


 とまで聞こえるに至っては、己が皇帝陛下を侮辱していると言う、そんな簡単な論理ロジックにも気付かない者が、宮殿で庶民には手の届かい給与を得ていると言う事実に、目眩めまいすら覚える。


「……イオ」

「何でしょう、キャロル様」


 あるじの怒りを察したのか、隣りの銀髪青年は、乾いた笑い声を滲ませながら、言葉を返す。


「どうせ後で、宰相ソユーズ書記官あたりに定例報告に行くんだよね? 『この私を、外政室ここに放り込むからには、覚悟しておいて下さいね』って、公爵サマへの伝言預けるね。この真冬に、給料泥棒をこれ以上のさばらせておくほど私も情け深くないし、国庫だって余裕がある訳じゃない。各家のしがらみなんて、知った事じゃないから」


 もとより、聞こえるように声をあげている、室内の一部の男性陣とは違い、キャロルは隣の青年に話しかけているだけだ。それも、低気圧全開の低い声で。


 それでも、近くの机で、無言で執務を行なっていた何人かが、ギョッとしたように、顔をあげた。


 重なる嫌味に、めげたようには微塵も見えず、むしろ売られた喧嘩を高値で買い取る気満々に見えたからだ。

 不安げな周囲の眼差しを、銀髪青年は、慣れた事とばかりに、綺麗に受け流した。


「どうぞ、思うがままになさって下さい。最近叙爵されたばかりの私も、貴族の習慣にはそれほど詳しくはございませんし、そんな私が、キャロル様を制止する事になど、もとより誰も期待はしていないでしょう」


 あおってる! と青ざめた周囲は、この目の前の主従が、何故外政室ここに派遣されたのかを、正しく理解しているようだった。


「そう? じゃあ、、始めるとしましょうか」


 某護衛の長のソユーズ家直伝、目が笑っていない笑顔で、キャロルは微笑わらった。




 キャロルが、住み慣れたカーヴィアル帝国を離れて、この、エールデ大陸の最北端、ルフトヴェーク公国で暮らすようになってから、およそ3ヶ月半。


 内、1ヶ月半は刺客との死闘が元で、意識不明で昏倒していた事を考えると、実質2ヶ月弱と言っても良いのかも知れない。


 その間に、キャロル・ローレンスだった筈の名前は、父方の姓であるキャロル・レアールに変わり、雪溶けの後には、この先を共に歩くと約束した青年の姓を受け、キャロル・レアール・ルフトヴェークと呼ばれる予定になっていた。


 人生、怒涛の展開もいいところだ。


 元はと言えば、世界さえ違う日本と言う国で、女子高生をしていた事を思えば、尚更。


(あー……でも、もう、日本に住んでたよりも長くなっちゃったんだ……)


 転移なのか転生なのか、ある日いきなり、このエールデ大陸で赤ん坊からの人生をやり直す羽目になったキャロルの心の奥底には、まだ「八剣やつるぎ深青みお」としての記憶が、埋められたままだった。


 未だに、この世界の完全な住人じゃないと思ってしまう、この小さな違和感を、いつかぬぐえる日は来るのだろうか。


「――キャロル様?」


 ふと、隣りに立つ銀髪青年に視線を投げれば、不思議そうに小首を傾げられてしまう。


「あー……ううん、イオはどうやって、過去のを吹っ切って、未来まえを向こうって、思えたのかなぁ……と、ちょっと」


 周囲の無言の圧をまるで無視したこの発言に、青年は苦笑しかけて、慌てて表情を引き締めた。


「そう言う話は、お茶の時間にお願いします。もっとも、私は、その話はあまりしたくないと、以前に申し上げた筈なんですが」


「……まぁ、そう言わないで。同じく苗字が変わった者同士、愚痴くらいは聞いてくれても」


「……愚痴でしたら」


 イオルグ・ラーソン男爵。元々は、レアール侯爵領のお抱え護衛だったのが、キャロルの専属護衛となり、つい最近、男爵に叙爵されたばかりの、元イオルグ・ランセット青年が、キャロルの隣で顔をしかめた。


 公国宰相エイダル公爵名での叙爵にあたり、断絶した男爵家から、好きな家を選べと言われた末に、なるべく響きが近い家を選び取っての、改姓だ。


 ミドルネームを付けたり名乗ったりする事は、には許されていないため、ランセットも必然的にその姓を捨て、新皇帝の即

位と共に「ラーソン男爵」と、その名を変えて、公都ザーフィア内に、小さいとは言え、館まで賜る事になった。


 ラーソンと呼び慣れないキャロルもまた、短い思案の結果、公式の場以外では、新たな姓ではなく、彼の親友や恋人がそう呼ぶように、「イオ」と呼ぶ事に決めて、今に至っていた。


 実は青年にも、以前「かのう柊已しゅうや」としての生があった。


 つい最近までは、本人以外にその事が知られる事はなかったのだが、偶然にもその事を知ってしまったキャロルとの空気は、それ以降、より近いものとなっていった。


 主従のやりとりにしては、意外に遠慮斟酌が欠けぎみである事に気付いた周囲は、ハラハラすると言ったていで、2人を伺っている。


「……で、この後何をされるのか、ご指示頂いても?」


「ああ、うん。書類の提出場所を言語ごとに分けようと思ってるのと、その中でも情報の種類を――うん、一度に色々な事に手をつけない方が良いよね。まずは室長机とその周辺、五等分して、場所確保かな」


「かしこまりました」


 と言うことで……と、初めてここで、キャロルが部屋全員に聞こえるよう、声の調子を上げた。


「この部屋に籍を置く全員の正確な語学力が知りたいので、今から配る書類を、あなた方なりに翻訳して、出来次第提出して下さい。辞書とか使っても、それは別に構いません。正確性と速さの両方を見て、こちらは判断しますので。終わった方から各自の仕事に戻って頂いて結構です」


 たかだか二十歳はたちやそこらの小娘に、上から指示をされる事に、少なからずの反発の空気が巻き起こっていたが――人材の見極めと切り捨ては、実は既にここから始まっていた。


「不平不満のある方は、お昼休みにでも宰相室に直接抗議して下さい。広く門戸は開けておく、との事でしたので」


 宰相の威を借ると捉えたか、宰相に認められていると、判断したか。


「公爵閣下も、なんでこんな伏魔殿ふくまでん化するまで放っておいたかなぁ。外交における情報の重要性を、理解していない人じゃないでしょうに」


 隣に立つイオにのみ聞こえる愚痴と共に、キャロルはため息を吐き出した。


「外交――ですか。今現在、何か問題でも?」


「イオ、それ本気で言ってる? この部屋の見ても――うん、まあ、後でいいや」


 キャロルはそう言って、机にあった、カーヴィアル、マルメラーデ、リューゲ、ディレクトアそれぞれの言語で書かれた本の中から、各々一冊を抜き取ると、綴じ紐を外して、一枚ずつを各自に配るよう、イオに指示をした。


「ラーソン卿、貴卿あなたにも一応、どれかをやって貰います。私はこの部屋では、氏素性ではなく、仕事の成果で全て判断しますから。……念のために言うと、ロータスは、カーヴィアル語はマスターしてたからね」


 最後の一言のみ、小声でそう付け足したキャロルに、イオは真面まともに言葉を詰まらせた。


「……っ」


 あの人ロータスは、どこまで無双を貫くつもりだ。


 実はレアール家の誰も、彼に頭は上がらないのではないかと思われる執事長の名に、さすがのイオも怯む。


 中身が似てきていると、周囲に言われている事は分かっている。それは光栄な事だとイオも思うが、とてもではないが、まだまだ追いつけそうにはない。


「まぁ……そんなすぐに、ロータスみたいになれたら、誰も苦労しないって」

「そう……ですね」


 ため息をこぼすイオに、キャロルも苦笑いを浮かべている。


「一つずつ、積み上げていけば良いんじゃないかな。私も……ロータスを目指してる訳じゃないけど、色々、一つずつ積み上げているところだし」


「キャロル様……」

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