第9話 憂鬱な即売会③
「もう間もなく、ベネットさんのサークルです」
「あ、はい……」
額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。心臓が早鐘のように鳴り、息を吸うのも苦しい。
運動不足を嫌というほど痛感した。
「ベネットさんっ! 不幸な運命に
周囲に響き渡る義弟の声。
何事かと振り返るサークルの方々。
今、手元に適当な本があれば、丸めて後頭部を殴っていたと思う。
「おぉっ! めっちゃ可愛い子やんっ!」
コチラを一目見るなり、大きな体を振るわせた。
「おおきに。ベネットいいます。毎度お父さんの栗田さんには、ようけお世話になっとります」
眼鏡を掛け直しながら、福恵比寿のような人懐っこい笑顔でペコリと頭を下げた。
「こんな、えぇ子がおるのに、どっか行かはるとは。栗田さんも罪な人やわぁ」
「私も激しく同意します。
「ほんまやでっ! 見付け次第、皆でキツうお
客人を放置して盛り上がる二人。
ベネットこと、米内さんは大手サークルなだけに、売り子の人数が多い。
わざわざ皆へ聞こえるように言わなくて良いのでは。
無事に男へ戻ったとしても、暫くはココの敷居を
「ちなみに由喜ちゃんは、ベネットさんの熱烈な大ファンだそうですっ!」
そこまで言ったっけ? かといって訂正を口にするのも無粋なので。
「先生の作品、いつも楽しみに読んでいます♪」
お会い出来て光栄ですと声を
「嬉しいわぁっ! ほんま、えぇ子やぁ~。ほな新刊やらなっ! 既刊も全部持って行ってや!」
有無をいう間もなく渡される同人誌一式。それも紙袋付きで。
「あの、ベネットさんは、私の父と長い付き合いなのですか?」
「うん、長いで。十年くらいちゃうかなぁ」
正確には十五年だけど、この際、些細な事はどうでもよく。
「実は…」
「ベネットさん、新刊ですっ!!」
突然の横槍に、本命の会話がぶった切られた。
「お~毎度っ! 新刊を渡すさかい、ちぃとばかり待ってや!」
サークル主の声に、紙袋へ本を詰め込む売り子の方々。
それも終わらぬうちに、新たな『新刊持って来ました』の掛け声。その背後にも、挨拶待ちの方々が様子を伺っていた。
「どうも、ゆっくり話しをするのは難しいようですねぇ」
思っていた事を義弟が口にした。
「流石、大手サークルですね」
ネット飲みした時の詳細を今一度と思ったが、コレは無理だな。
「由喜ちゃん、イベント後のご予定は?」
何もないですよと首を左右に振った。
「もしよろしければ、イベント後の打ち上げに参加されますか? その時なら、積もる話も出来ると思いますし」
「打ち上げ?」
「はい。夜の七時を予定しています」
そか。
宴会の席でなら機会は幾らでもある。
「よろしいのですか? 私が参加しても」
「はい。まだ人数に余裕はありますので」
あの店なら融通が利くし大丈夫か。そもそも予約したの俺だし。
居酒屋ではないので、未成年が混じっても問題なかろう。選定時は特に考慮していなかったが。
「春佳さんの参加も可能でしょうか? きっと私一人では心配すると思うので」
参加者全員もれなく男だし。名簿を作った身なので面子は知っているけど。
「是非是非っ! 春ちゃんが参加するなら大歓迎ですっ!」
「ありがとうございます。春佳さんには、私からお願いしてみますね」
きっと凄く嫌そうな顔をするだろう。
「後十分でホールを閉めまぁ~すっ!」
遠くから聞こえた声に、ギクリとした。
「私、帰りますっ! ではっ!」
「お気を付けてっ!」
「走らないでくださいっ!!」
背後から飛ぶ即売会スタッフの声。
判ってはいるけど、歩きで間に合うとは思えず、競歩よろしく手と足を急いで動かす。米内さんの紙袋が地味に重いっ!
「間もなく通路を締めますっ!」
「出まぁ~すっ!!」
ギリギリのタイミングで閉鎖間際の扉をくぐる。
まずは一安心だけど、目の前に広がるは一直線に伸びた自由通路。これを急いでか。距離の長さに心が
明日、筋肉痛確定。賭けても良い。
「自由通路、あと数分で閉鎖しますっ!!」
判ってますって………。
心の中で溜息を付きつつ競歩を再開。
自由通路から隣の建物へ、階段を下り配置されたホールへ。
自分のサークルが視界に入り、ようやく一安心。
「ただいまぁ~」
「お帰りなさい」
「もう、めっさ疲れた」
娘の隣へ腰を下ろすと、途中の自販機で買ったスポーツドリンクを開封。一気に飲み干した。
「誰か来た?」
「特には」
娘の後ろ髪が、サラサラと左右へ揺れた。
「春佳姉さん。終わった後の予定、特にないよね?」
「帰るだけじゃないの?」
「米内さんの打ち上げ、付き合って欲しい」
「はい? わたしも?」
予想と
「その席に掘さんが来るんだ。頼むよ」
即売会には未参加だが、打ち上げには参加予定だった。
「それって、一緒に飲んだ人だっけ?」
「当たり。この姿になる前夜、ネット飲みしたのは米内さんと掘さん。その二人が今夜、顔を合わせる」
あの日の事、何も憶えていないと両者からメールを受け取っているが、僅かでも良いので手がかりが欲しかった。現状もう他に当てがない。
「飲み代は、俺が全て出す」
義弟の事だから、二人分持ちますと言いそうだけど。
「由喜ちゃん」
「ん?」
「俺、じゃなくて、わたし、の方が可愛いと思うよ?」
「お、おぅ」
適切な突っ込み、ありがとう。
「そういう理由なら、わたしは構わないけど。保護者いた方が良いんでしょ?」
保護者ねぇ。
「二十歳、越えたし?」
「うん。お酒、飲めるようになったし♪」
数ヶ月前、誕生日を祝った筈だが、成人したのを忘れそうになる。顔が童顔だから………などとは口が裂けても言えない。
「帰りが遅くなるの、連絡しておくか」
胸ポケットへ手を伸ばすも、そこにスマホはなく、柔らかな膨らみの感触があるばかり。
この姿になってから、端末はバッグの中だという事をいつも忘れる。
「わたしが、お母さんにメールしよっか?」
すぐに打てるしと、手元の液晶を俺に見せた。
「じゃぁ、頼む」
「うぃっす」
タップするなり滑らかに走る指先。
キーボードなら負けないが、画面のフリック操作では娘の方が一枚上手だろう。
「お店はどこなの?」
「米内さんの仕事場近く」
帰宅途上の途中下車なので、多少遅くなっても終電を気にせず済むのが楽だった。
「由喜ちゃん。先に言っておくけど、打ち上げで変な物を飲んじゃダメだからね?」
「飲まないって」
この容姿でビールジョッキーを傾けたら、さぞ目立つだろう。
「それと大人の言うことは、ちゃんと聞くように」
「はいはい。判ってますよ、春佳姉さん」
「よろしくね♪」
そういうなり、にこやかな顔で俺の頭に手を置いた。
立場の逆転を楽しむように。
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