第4話 憂鬱な日々は前触れもなく③
良く出来てるよな、これ。
下着のショーツへ貼り付けながら毎度感心してしまう。
この薄さで漏れなく吸収するのだから。
「あなた、使い方判る?」
トイレの扉越しに聞こえる妻の声。
「問題ないよ。もう三日目だし」
生理痛も娘から分けてもらった薬で、かなり軽減。
この身体にも随分慣れた。
正直、慣れたくはなかったが。
「今、出る」
ゴミを丸めて片付け、水を流した。
去年、温水便座にして良かったと、しみじみ思いながら。
「お待たせ」
扉の外に立っていた妻へ、一声詫びた。
「お父さん、お昼ご飯どうする?」
「お昼?」
トイレではなく、それを聞くために待っていたのか。
「俺は何でも構わないけど」
「たまには外食しない?」
「ぇ? 外?」
「だって、ずっと引きこもり状態でしょ? たまにはさ、お日様に当たるのも良いんじゃない?」
「それは、そうだが」
外で新鮮な空気を吸うのも悪くはないけど。
「正直、出るのは怖いな」
「どうして?」
「外で、いきなり元に戻ったら面倒だろ?」
「それはそれで良いじゃない♪」
満面の笑顔で妻は断言した。
「いつまでもその姿だと、あなたも大変でしょ?」
………そう来るかぁ。
だが一理あるな。あれ以来、一度も日光を浴びていなかった。可能性のある事は、一つでも多くしておいて損はない。
「判った。外へ食べに行こう」
時間的に会社でもお昼時。問い合わせの連絡もなかろう。
「陽子は、どこへ行きたい?」
平日のランチタイム。自宅近辺の事なら、自分より妻の方が色々知っている気がした。
「私の趣味で決めちゃって良いの?」
「出来れば近場の方が嬉しい」
会社の昼休みは一時間程度。店との往復時間は短いに越したことはない。
「じゃぁ、出掛ける用意をしなきゃ♪」
「俺は部屋で待ってる」
まだ妻は普段着のまま。時間が掛かるのは目に見えていた。
「準備出来たら教えてくれ」
「ち~が~う」
そうじゃないと首を左右へ振った。
「あなた、こっちへ来て♪」
俺の手を引き、連れて行かれたのは妻の部屋。
「お出掛けするのに、どれを着て行く?」
「どれって……」
「これが良い? 似合うのはこっち? それとも可愛いのにする?」
部屋の中に用意された衣服の数々。
「まだ秋物でも通用するけど、やっぱり冬らしく厚めのコートが良いかしら」
嬉々としながら、俺の首元へと次々上着を当て、あれやこれやと吟味を始めた。
トイレの前で待ち構えていた理由は、これが本命らしい。
並べてあるという事は、午前中から用意していたのだろう。
「それ、春佳の誕生日に買ったヤツだよな?」
妻が手にしたオーバーコート。見覚えがあった。
街中を二人で数件はしごして、悩んだ末に買った気がする。
「そうなのよ。あの子、数回しか着てくれなかったの」
「それを俺に着ろと?」
「可愛いじゃない。今のあなたなら、とっても似合うわよ♪」
娘へと選んだ服に自ら袖を通す。冷静に考えると目眩がするような状況だが。
「それで良い」
大きく頷いてみせた。
「そう? 他にもあるけど、試着してみない?」
「それに決めた」
念押しすべく、もう一度深く首を縦に振った。
見える範囲で、外套だけでも三着は壁に掛かっている。任せていたら、いつまでも埒が開かないだろう。
「じゃぁ、コートはこれで決まりと。中に何を着る。頭はベレー帽とかどう? 靴下の色は何が似合うかしら」
「もう、何でも良いよ」
なるべく手短にと努力するも、あれやこれやで数十分が瞬く間に経過。
「うん、完璧っ!」
着飾った俺を眺めながら、ご満悦な笑顔。
妻が喜んでくれたなら、とりあえず良しとする。
「じゃ、行こうか」
「待って。今から私の用意をするから」
「今……から?」
更に待たされる事、数十分。
靴へ足を通す頃には、何でも良いから胃の中を食べ物で満たしたかった。
「良い天気。出掛けて良かったでしょ?」
あからさまに肯定的な返事を求める妻。
「そうだな」
ひねくれず素直に頷くと、天を仰ぎ見た。
澄み切った蒼穹の空。
その中を、一本の線を引くように、飛行機が白い雲を細く、細く、棚引かせながら北上していた。
冷たく乾燥した空気。頬を撫でる風。
ずっと室内に籠もっていたから、気分転換にはなるけれど。
「寒っ!」
一陣の木枯らしに、ゾクりと身震いがした。
「そのコート、薄かった?」
「いや」
娘にと厳選し大枚をはたいて買った逸品。上半身は汗ばむほど温かい。
問題なのは足下。スカートの隙間から北風が容赦なく入り込む。
ストッキングを穿いてもこれか。
娘がズボンを好む理由が良く判った気がする。
「陽子。さっきも言ったが、お昼は近所で済まそう。なるべく近場で」
寒い。腹減った。時間もない。さっさと帰りたい。
下腹がシクシク疼く女性特有の鈍痛も地味に辛かった。
「じゃぁ、おばさんのお店にする?」
「うん、そこ」
良く判らないが力強く頷いた。
黙っていたら、商店街を長時間さまよいかねない。
「あの店なら、こっちよ」
私に任せてとばかりに、妻は率先して一歩前へ。
その後ろを大人しく付いて歩く。
見慣れた筈の小さな背中。今日はとても大きく見えた。
俺の背が縮んだから当然なのだが。
いつも見下ろしていたのが、今ではコチラが見上げている。
端から眺めたら、仲の良い母娘という感じだろうか。
「あなた、ここよ」
「へ?」
もう着いたのか?
物思いに耽る暇もなかった。
「少し待ってね」
そう言うなり民家の引き戸に手を掛けた。
下がっている暖簾で辛うじて飲食店と判る、ありふれた一般家屋。
壁面から無造作にぶら下がったホワイトボードには、本日の定食とお勧め料理が手書きされていた。
「二人、座れます?」
戸の隙間から交わす会話。数秒後、妻は振り返りニコリと微笑んだ。
席が確保出来たらしい。
中へ入りましょうと俺の手を握り締めた。
まるで幼子を連れ歩くように。
「いらっしゃい」
入店と同時に、小柄の女将さんが優しげな笑顔でお出迎え。
外見から予想はついていたが、店舗内は十人が入れるかどうかという狭さ。
なるほど。
妻が『おばさんのお店』と名付けるわけだ。
飲食店というより、一般家庭にお邪魔した気分。
「あなた、そっちへ座ったら?」
俺を席へと促すと、妻はカウンターへ。
セルフサービスなのか、お茶を湯飲みへ注ぎ、テーブルの上へコトリと置いた。
「何を注文する?」
指差す壁には達筆な文字のお品書き。高くもなく安くもなく。
気になる物が幾つかあるが。
「お前と同じ物で良いよ」
「そう?」
「別々の料理を注文したら、時間が掛かるだろ」
カウンター越しに見える狭い厨房。
従業員が女将さん一人しか見当たらない。
「すみません。本日の日替わり定食、二つお願いします」
「は~い。日替わりね」
注文を復唱しつつ、テキパキとこなす割烹着を見ながら湯飲みに口を付けた。
焙じ茶か。
久し振りだな。ホッとする。
子供の頃によく飲んでいた。母親が好きだったから。
「あなた。この後の予定は?」
「帰って仕事」
「ねぇ、髪を切りに行かない? 今のままだと何かと不便でしょ?」
「まぁね」
短くしたい気持ちはあるが。
「時間が無いよ。食べたら、すぐに戻らないと」
二人の着替えだけで約三十分は浪費していた。
「後で私が切って上げようか?」
妻は手を伸ばすと俺の頭へ。
「前髪、切り揃えたら可愛いと思う」
満面の笑みを浮かべながら、愛しそうに髪を撫でた。
「なぁ、陽子」
「何?」
「今、ずっとこのままでも良いなって、思っただろ」
「そんな事ないわよ?」
否定しつつも今度は頬に触れ、その弾力を確かめるように指で押した。
「もし、春ちゃんに妹がいたら、こんな感じかしらと思っただけよ」
「………妹、か」
俺も出来れば二人目が欲しかった。
「しばらくは、今のままなの?」
「それが判ったら苦労しない」
メールで期間通知が来るわけもなし。
「未だ理由が判らない。どうしてこうなったのか謎。しまいには自分が誰なのか不安になって来る」
「手がかりすら無いの?」
「それなんだが」
思い当たる節が一つだけ。
「こうなった日の前夜が、やはり一番怪しい」
「前夜って、深夜のネット飲み?」
「それ」
飲み出してから、翌朝までの記憶がスッポリ抜けている。
深酒で何度か記憶を飛ばした事はあれど、数時間に渡って欠落というのは前代未聞だった。
「誰と飲んだの? いつもだと西村さんと志摩さんよね?」
「最初はその予定……だった」
「違うの?」
「揃ってドタキャン」
二人とも師走の年末進行で、修羅場中とボヤいていた。残業が深夜にまで及んだのだろう。
「じゃぁ、小澤さん?」
「誘ったけど、既に別の宴会予定が入っていた」
「あなた一体、誰と飲んだのよ」
「掘さんと、ベネットさん」
当初はそれすら失念していた。
ダイレクトメールの痕跡で、ようやく探り当てた。
「ベネット? 誰?」
「米内さんのペンネームだよ。本名をもじってる」
本人から直接聞くまでは、洗礼名だと思っていた。
「あの人なら、年末に会うんでしょ? 同人誌の即売会で」
「いつもならね」
実は彼から、即売会後の宴会幹事を依頼されていた。
「会って話したら、何か判るんじゃない?」
「この格好で?」
思わず肩をすくめた。うんざりとした顔も追加して。
妻が口元を抑えながら苦笑した。
実は既に、二人にはメールでそれとなく尋ねていた。
結果、返信内容は両者同じ。酔って記憶にございません。
コチラと同じ状況なのは気になるが、これ以上、詮索のしようがなかった。
「はい、お待たせ」
水入りとばかりに、本日のお昼ご飯が目の前に置かれた。
「本日のランチ、五目ご飯と天麩羅の盛り合わせね」
女将さんに笑顔で頷きつつ、箸立てへと指を伸ばした。
品数は多い。でも量は少なめ。
いつもなら物足りなく思うのだが、胃が小さくなった現状では、色々な味が楽しめてお得感がある。
店の客層が女性ばかりなのは、偶然ではないだろう。
「あなた、戴きましょ?」
「あぁ」
手を合わせ、まずは一口。
うん。悪くない。
お腹が減っているのもあるが、どれも優しい味。それでいて薄く感じないのは、出汁と塩分の調整が絶妙なのだろう。
「美味しい?」
赤出汁の味噌汁に口を付けながら、コクリと頷いた。
「私としては、今のままでも大丈夫よ? 私が食べさせてあげる♪」
妻の笑顔は、俺に気を遣ってか。それとも本心なのだろうか。
「そっちの仕事は、どんな状況?」
「順調よ。今のところはね」
翻訳が妻の稼業だった。
フリーで仕事が途切れないのは、それだけ腕が良いのだろう。
だが、住居と娘の教育ローンを考えると、生活するだけで余裕には程遠い筈。
「あなた、これって何だと思う」
「この天麩羅? 多分ワカサギ」
抹茶の粗塩とは手が込んでいる。
どの料理も及第点以上なのだが、先々の心配事が頭から離れず、目の前の品々を素直に味わう事が出来なかった。
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