第3話 憂鬱な日々は前触れもなく②
「メールに添付した見積もりを、ご確認ください…っと」
書き忘れとか、ないよな。
念のため金額に目を通し、送信ボタンをクリック。
これで一安心。
やはりというべきか、仕事が山積みになっていた。
ある程度は自宅でも作業は出来る。だが、会社のデータ・サーバーに繋げるには、業務で使用しているノートパソコンが不可欠だった。
取りに行ってくれた妻に感謝だな。後で陽子が好きなチョコーレートを箱買いするか。
「見積もりの後は……」
発送の手配を部下に依頼して、この件も終了。
一息入れるかとマグカップへ手を伸ばすも、残っていたのは香りのみ。さっき飲み干した事を今更ながら思い出した。
さて今度は、どの珈琲豆を挽こうか。
この辺はテレワーク様々だと思う。会社だとインスタント一択だから。
キッチンへ向かうべく膝を立てた矢先、玄関から開閉音が響いた。
遠くから聞こえる『ただいま』の声。
もうそんな時間か。
さっきまで青く見えた外の景色が、今や夕闇迫るオレンジ色に。冬至が間近に迫っていた、
「お父さん。頼まれた物、買って来たよ」
扉の隙間から娘が顔を覗かせた。ガサリと大きな袋を鳴らしながら。
「ありがとう。助かるよ」
立ち上がり品物を受け取ると、早速中身を確認。
「春佳、お金は足りたか?」
「少し余った」
「お釣りは、お前にやるよ」
眼鏡を外し上着をシャツごと脱ぐ。
ついでに下半身もパンツを含め全て下ろし、その場で全裸に。
普段なら文句の一つでも飛んで来る行為ではあるが。
「本当に女の子だねぇ」
「だろ?」
娘から好奇の視線を肌身に浴びながら、下着のショーツに足を通した。
パジャマとか普段着なら妻に拝借しても良いのだが、流石に下着までは気が引けた。
胸周りも豊満には程遠いのだが、乳首が布地に擦れる度に痛いやら痒いやらと刺激が走る。
かといって高い物を選ぶ気にならず、ひとまずスポーツプラで妥協した。
「おとん、身体の具合はどう?」
「アレから特に変わりはないよ。酷かった肩こりが消え、楽になったくらいさ」
着替え終え、眼鏡を再び装着。
肉体は若返ったように感じるが、視力だけは以前と変わらぬまま。
そういや眼鏡を掛け始めたのは、中学へ進学直後くらいだったな。
「敢えて言えば、少し頭痛がする」
お腹の調子も微妙に悪い。
「大丈夫?」
「多分、風邪だろ」
炬燵で朝まで寝ていたし。
「お母さんが、もう少しで夕ご飯、出来るって」
「判った」
いつもなら、晩飯を口にするのは帰宅後の夜九時以降。
何となく違和感を覚える。
二十年以上、同じ生活リズムだったからな。
この身体になってから、何もかもご破算気味ではあるのだが。
「仕事が一区切りしたら、そっちへ行くよ」
娘にマグカップを手渡し、背筋を伸ばした。
座椅子に炬燵は、やはり仕事に向かないな。まともな机と椅子を買うべきかと、しばし悩んだ。
「これ、ちょっと多くないか?」
自分の席に置かれた山盛りのご飯茶碗。
妻への感謝の言葉より先に、苦情が口からこぼれた。
「いつもそれでしょ? あなたは」
「今は無理だって」
お昼にサンドイッチを食べたが、一つでお腹いっぱいになり、二つ目には手が伸びなかった。
据え膳食わぬは何とかの恥とはいえ、この量は流石に厳しい。
致し方なく、お櫃へと半分ご飯を戻した。
「おとん、食欲がないの?」
「そんな事はないよ」
ただ、お腹の調子はいまいち。昨夜、飲み過ぎたからなぁ。
「いただきます」
席に座り手を合わせると、味噌汁を一口。
赤味噌の風味が普段より強く感じられた。味覚が変化しているのかも。
「やっぱり中身は、お父さんだよねぇ」
俺を見ながら、しみじみと娘は呟いた。
「春ちゃん、どうしてそう思ったの?」
「箸の持ち方。絶対に他の人は真似出来ないもん」
「そ、そう……かな」
子供の頃からの癖で、箸の一本を親指と人差し指の根元だけで保持する。
同じ持ち方をする人は、ついぞ見た記憶がない。
これまで幾度も矯正を試みるも、気付くと元に戻っていた。
「そうねぇ。記憶と仕草に関しては、確かに瓜二つよねぇ」
奥歯に物が挟まったような妻の物言い。
信じてくれと言っても、難しいのは良く判るのだが。
「俺がお父さんじゃなかったら、何だと思う?」
「そうねぇ。記憶を植え付けられた別人とか、ありそうじゃない?」
「俺の記憶を、女の子の身体に?」
「そうそう」
「そんなの…」
あるわけない。そう言おうとして、ハタと気付いた。
俺は、誰だ?
その根拠にしているものは、何だ?
自分の名前。履歴。想い出。全ては頭にある記憶に基づいている。
もしもこの記憶が、改ざんされた知識だとしたら………。
俺は本当に、栗田健介という存在なのか?
「おとん?」
どうしたのと娘が首を捻った。
「いや、なんでも」
気まずい空気を誤魔化すように、お皿へ盛られた豚の生姜焼きへと箸を伸ばした。
一口囓る。
うん、美味しい。
そう思う俺は確かに実在する。それが何者かは一先ず置くとして。
「陽子。記憶を完全にバックアップし、他人へ植え付ける技術なんて、この世に存在するのか?」
少なくとも俺は聞いた事がない。
「それを言い出したら、中年の男性を一晩で女の子にする方が、ずっと難しいと思うけど?」
「……………そうだな」
それを言われると、ぐぅの音も出なかった。
「仮に記憶が移されたものだとしてだ。この娘の身体は、どこから出て来たんだ?」
「お父さんのクローン?」
「それだと男になるだろ」
反射的に突っ込みを入れた。
「じゃぁ、お父さんの隠し子」
まだ妻は、その可能性を引きずっているのかぁ。
「そうだとしても、記憶を埋め込む必然性がないよ」
「身体が女の子になるよりは、あるんじゃないの?」
千日手だ。この会話。
卓上の和風ドレッシングを手に取ると、添え付けのキャベツの千切りへ注いだ。
無意味な会話よりも、食事に口を使った方が数段有意義に思えた。
「お父さん、いつになったら元へ戻るの?」
「それは俺が一番知りたい」
そうだ。
娘の一言で、伝えるべき事を思い出した。
「春佳。お前の国家資格の試験、二月中旬だったよな」
「うん、そうだよ」
「絶対に合格しろよ。絶対だ」
強い口調で念押しした。
「そのつもりだけど、何かあるの?」
「もし俺が元に戻らない場合、早ければ来月、会社をクビになる」
娘の生姜焼きが、箸ごと空中でピタリと停止した。
「マジで?」
「マジ。多分、間違いなく無職」
今回、どうやっても出社は困難と、手練手管を最大限に駆使し、テレワーク業務を会社に承認させたのだが。
やはりその代償は高く付いた。
上司からのテレワーク承認メール。丁寧なおかつ物腰柔らかな文面ではあったが、内容は罵詈雑言の羅列だった。
普段から折り合いが悪く、机の下で蹴り合いをするような間柄なので、自業自得ではあるのだが。
弱り目に祟り目とはこの事か。
「俺も努力はするが、長く持っても来年の春くらいが限度。だから、絶対に資格を取って卒業しろよ」
「お、おぅ」
妻の内職と貯蓄で糊口はしのげるが、娘の教育ローンが家計に重くのしかかっていた。
医療系の学校だから致し方ないのだが、この先の事を考えると頭が痛い。
「んっ!」
冗談抜きで、ズキンと来た。不意打ちのように。
「あなた、どうしたの?」
「ちょっと頭痛がする」
「風邪?」
妻が俺の額へ指を当てた。
「熱はないみたいねぇ。喉は?」
「そっちは大丈夫。鼻水や咳もないが、腹の調子がいまいち悪い」
昼間よりも痛みが増している気もした。
「お父さん。お腹のどの辺り?」
「へその下くらいかな。じわじわと痛む」
当初は消化器系かと思ったが、どうも違う気がする。下痢の兆候もないし。
「それ、風邪じゃなくて……」
何か言い掛けたまま、娘は席を立ち廊下へ。
約三十秒後、ある物を手に戻って来た。
「おとん、これの使い方って判る?」
娘が差し出した物。
それは生理用品だった。
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