第2話 憂鬱な日々は前触れもなく①


 事の起こりは去年の師走。

 冬の冷気に満ちた早朝の自室から始まった。







「んん?」


 目が覚めた瞬間やっちまったと思った。

 カーテンの隙間から白い木漏れ日。

 清々しい朝を告げる鳥の声。

 目の前には食い散らかしたツマミの残骸と日本酒の四号瓶。

 ネット飲みはダメだ。際限無く飲んでしまう。

 寝落ちしたかと思ったが、眼鏡はキーボードの上に鎮座。

 液晶モニターが消えているので、パソコンの電源を自分で落としたらしいが、いかんせん記憶にない。

 座椅子に炬燵だからな。寝室へ向かうのが億劫で、そのまま横になったのだろう。


 今日、月曜だっけ?

 会社に行くの、かったりぃ。

 体が怠くて頭痛がする。典型的な二日酔い。

 休むか?

 有給が余ってるから風邪で病欠もアリだが。

 いや。こんな事で消化するのは流石にもったいない。


「起きるか」


 なんか声に違和感。風邪を引いたかも。

 吐く息が白い。年末が近い事を今更ながらに思い出した。

 今、何時だ?

 欠伸をしながら目を擦る。頭が痒いので………。


「ん?」


 なんだ?

 指先に髪の毛が、絡み付く?


「はぁ?」


 慌てて自分の頭を撫で回す。

 先日、千円で短く整えた頭髪。なぜか指に絡まるほど長い。

 懐かしいな、この感覚。

 二十代の頃はポニーテールも余裕で………いや、そういう話じゃない。

 顔に手を当て、大きく深呼吸。

 したからといって、何も変わらず。当然か。

 なんか指もいつもより細いような。

 気のせいか?

 じゃぁ、目の前にある胸の膨らみも、気のせいのなのか??

 俯いてようやく気付いた。

 山が二つ、それもささやかに。

 手を当てる。

 なんか柔らかい。

 まるで女性の胸のようだ。

 サイズは………娘よりも小さいな。


 うん。

 夢だ。

 夢に違いない。

 しかし現実感はある。

 すると、盛大に寝ぼけているだけか。昨日の酒が残っている可能性もあるが。

 時計の針は朝の六時。出勤時間までもう一眠り出来そうだが。

 とりあえず水を飲むか。酷く喉が乾いた。

 膝を立て身を起こす。


「ぅん?」


 意味不明な違和感。

 立ち上がったのに目線が低い。腰を折っているわけでもなく。

 そんな事より今は水だ。


 自室を出て洗面所へ。

 栓を捻り水を飲む。ゴクゴクと。

 酒を飲んでいる最中ろくに水分補給をしなかったからな。

 ついでに顔も洗った。

 これで目が醒めただろう。

 そう思い、鏡を見た。


 見た。


 自分の姿を。


 ……………何が、起きた?


 目の前に少女がいた。

 背が低く。

 髪の長い。

 中学生くらいの子が鏡に映っていた。

 しばし見つめるも姿は変わらず。

 首を捻ると、鏡に映った姿もそれに倣った。

 手を上げる。やはり鏡像も片手を持ち上げた。寸分違わぬタイミングで。


 俺は洗面所を飛び出した。

 廊下を駆け。

 リビングを抜け。

 和室へと滑り込んだ。


「起きろ」


 並ぶ布団。

 手前に寝ている妻の陽子に手を掛けた。


「起きてくれ」


 肩を揺するも手応えはなく。

 ついでに隣で寝ていた娘の春佳も布団の上から揺すった。

 熟睡中、誠にすまないと思いながら二人を揺り動かした。


「もう、なんなの?」


 不満げな妻の声。


「陽子。頼むから目を開けてくれ」


 起こしながら自覚した。

 発する声のトーンが不自然に高い事を。


「いい加減にしてよっ! まだ、お弁当を作る時間じゃ………」


 キレ気味に声を上げながら目蓋を開けるも。

 俺の顔をしばし見つめた後。


「誰?」


 予想通りの言葉を、妻は口にした。


「俺だ。お前の夫だ」


 経過する事、数秒。


「はぁ?」


 一層、怪訝な声と視線をコチラへと向けた。


「朝起きたら、こうなっていた。信じてくれ」


 そうは言ってみるも、自分の姿や声は子供以上、大人未満の少女姿。

 自分が同じ立場なら、絶対疑うだろう。


「お母さん。この子、だぁれ?」


 娘の眠そうな声。目蓋を擦りながら、もそもそと布団から顔を出した。


「父さんだ、春佳。信じられないだろうけど」

「んん?」


 露骨に眉をひそめた。

 まぁ、そうだろうな。そうなるよな。

 二人から向けられる訝しげな視線。このままでは不審人物として通報されるのが目に見えていた。


「なぁ、春佳。お前は三歳の時、街に出て迷子になったよな」

「はぃ?」

「俺が警察へ駆け込んだ時、乳幼児を抱いた若い夫婦が、お前を交番へと連れて来た。違うか?」


 娘と俺だけが知っている記憶。

 次は妻だ。


「陽子。俺は最初の旦那を知っている。信号無視による交通事故だったよな?」


 あれはもう、二十年以上前になるか。


「暑いお盆の最中。一年以上も塞ぎ込んでいたお前に、こう言った筈だ。俺は、お前より必ず長生きすると」


 ピクリとしながら瞬きする妻。


「それ、誰から聞いたの?」

「お前が他人に話していない限り、二人しか知らない筈だ」


 娘にすら話していない。あの時は勢いで口にしたが、今でも口に出すのは気恥ずかしい。


「他に何を話せば良い? 何を言えば俺が父さんだと信じてくれる?」

「それは………」


 口籠もったまま、妻は俺の顔を見つめた。

 ここで『そうなのね』と即答されたら、むしろコッチが困惑しそうではあるが。


「今、その子が話した事さぁ。ウチのお父さんから聞いたんじゃないの?」


 ハッとした顔で娘が横槍を入れた。


「それはつまり、父さんの関係者として認めてくれるという事か?」

「う、うん……」


 納得したような、しないようなという表情で春佳は頷いた。

 これで少なくとも、赤の他人という事で、家から叩き出される可能性は低くなった。


「ちょっと、こっち向いてくれる」


 そう言うなり、妻は俺の両頬に手を当て上を向かせた。


「春ちゃん。この子、昔のあなたにソックリじゃない?」

「わたし?」

「うん。中学に入学したばかりの頃って、こんな感じだったでしょ?」

「そう、かな?」


 二人して、交互に俺の顔を覗き込んだ。


「そりゃ、春佳は俺と顔が似ているからな」


 目鼻の作りがそっくりだった。


「お母さん。この子、泣き黒子の位置がお父さんと一緒かも」

「そうねぇ。少なくとも、栗田家の血筋みたい」


 どうやら親戚認定までは、こぎ着けたらしい。


「あなた、お父さんの隠し子?」


 そう来るかぁ………。

 妻の一言に肩の力がズルリと抜けた。


「お前の旦那に、そんな甲斐性があると思うか?」

「いつも帰宅が遅いし、たまに帰って来ないじゃない」


 帰りが遅いのは、喫茶店で珈琲飲みながら文章を書いているから。

 たまに帰って来ないのは、友人宅の酒盛りで酔い潰れ、終電に乗り遅れるから。

 いつも説明はしているが、疑われる条件としては充分だった。


「春ちゃん。お父さんの部屋と、玄関の鍵を確認してくれる?」

「うん、判った」


 パタパタと和室から出て行く娘。

 その最中も妻は俺の顔を覗き込んだまま。


「そんなに、この顔が珍しいか?」

「春ちゃんよりも、義母さんに似ている気がして」

「そりゃ俺の母親だしな」


 頬をさすり、さすり。

 頭を撫で撫で。

 妻は新しい人形を値踏みするように、顔の隅々まで指を這わせた。


「おとん、いないよぉ~。玄関の鍵は掛かってた」


 一通り確認したよと、ひょっこり春佳が戻って来た。


「部屋はどんな感じだった?」

「ビール缶と酒瓶が転がってる。あとゴミがたくさん」

「靴は?」

「あったよ」

「そう……」


 困惑の表情を浮かべながら、妻は深い溜息をついた。

 ムニムニと俺の頬を弄びながら。


「ねぇ。今度は、わたしがその子に質問しても良い?」


 そう言うなり、ちょこんと娘が目の前に正座した。


「最近、何見た?」

「見たって?」

「テレビとか映画とか、面白い作品あった?」

「あった」


 俺は大きく頷いた。


「朝の光が待てなくて劇場版。もう三回観た」

「良かったシーンは?」

「ラストの朝日をバックに美香が微笑む場面。涙腺崩壊待ったなし」

「じゃぁ、一番遊んでいるゲームは?」

「武将名簿録」

「お気に入りは?」

「黒田官兵衛と真田昌幸。あと最近召し抱えた矢沢頼綱」

「嫌いなキャラは?」

「石田の茶坊主」

「お母さん。この子の中身、お父さんっぽい」

「お、おう」


 その判断基準はいかがなものかと思うも、信用してくれるなら、この際何でも良かった。


「言ってる事は、それっぽいわね」


 納得して良いのか悪いのか、妻は困惑気味に首をかしげた。


「仮にお父さんとして、今日のお弁当はどうするの?」

「それは……」


 必要と言い掛けて、舌が止まった。


 そうだっ! 仕事っ!


「おとん、会社へ行くの?」


 その姿でと、娘が真顔で問い掛けた。


「会社には、だな……」


 行こうにも定期券が使えない。男性で登録しているから、女性の姿だと怪しまれる。

 いや、それ以前にだ。

 この格好で出社したら門前払いをくらう。間違いなく。会社の同僚を説得させるなど、家族以上に無理難題だろう。


「休んだら?」

「それも、アリっちゃアリだが」


 風邪で病欠。娘に言われるまでもなく、それが一番楽な方法だった。有給休暇は余っているからな。

 だが、あいにくと師走の年末間近。色々と立て込んでいる。今日が期限の見積もりも数件あった筈。それも割りと高めのヤツが。

 明日に延ばせなくもないが………いつ元に戻るんだ、これ?

 かといってテレワークで自宅作業するには、どうしても足りない物がある。


 …………仕方ない。


 色々と考えた結果、無難な選択肢は一つのみだった。


「陽子っ! 一つ頼みがあるっ!」


 両手を合わせ、妻に頭を下げた。


「俺の会社へ、ノートパソコンを取りに行ってくれないか?」

「えっ? 私が?」


 面倒だから嫌とばかりに眉をひそめた。


「アレがどうしても必要なんだ。会社へは連絡を入れておくから」

「私、行った事が一度もないんだけど」

「じゃぁ、スマホに………いや、紙の方が判りやすいか」


 自分の部屋へと立ち上がるも、ズボンが腰からズリ落ちそうになった。衣服が前のままだから、どれもサイズが一回り大きい。


「春佳。髪留めのゴム、貸してくれないか?」

「わたしの?」

「一つで良い。流石にこの髪はウザい」


 何かする度に髪の毛が纏わり付く。


「ブラシ使う?」

「いらない」


 手早く髪を後頭部で一つにしようとするも上手く出来ず。やっぱ長いな。

 何とかポニーテール的にまとめると、自分の部屋へ急いだ。

 一人宴会の残骸後を掻き分けながら液晶画面の前へと座る。

 少し寒いな。パソコンの電源を入れると同時に、炬燵のスイッチも入れた。


「おとん、使えるの?」


 背後から娘の声。

 首を捻ると親子二人で様子を伺っていた。


「使えるよ」


 起動画面にパスワードを入力しログイン。手早く会社の住所を検索し、地図をプリンターへ出力。

 いつもの手慣れた作業。体は変化したが、記憶や思考に変化は無いらしい。ただ、背が縮んだせいか液晶画面が見辛い。後で角度を変えるか。

 印刷された地図を手に取り、赤ペンで矢印を引く。住所と電話番号も記載済み。


「これで行けるか?」

「まぁ、判りはするけど」


 地図を受け取りながらも、未だに浮かない顔の妻。

 そうだ、交通費。

 脱ぎ散らかしたままだったスーツの上着から財布を取り出し、右手で千円札を二枚抜き出した。


「これで足りるだろ」

「多分」


 お金を受け取るも、視線は俺の左手を注視。

 数秒後、妻の意図にようやく気付いた。


「これごと渡しておく」


 手持ちのお金も含め、黒の皮財布を押し付けた。


「カード類はクレジットも含め全部入っている」


 こんな身なりが家の全財産を握っていると不安にもなるだろう。


「銀行のATMで使うパスは知ってるよな?」


 妻はコクリと頷くも無言のまま。

 しばし財布を見つめた後、受け取った物を両手で俺に差し出した。


「やっぱりコレは、あなたが持っていて」

「良いのか?」

「うん。じゃぁ、着替えたら出掛けるね。お父さん」


 にこりと妻は微笑んだ。

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