エピローグ
エピローグ 担任安田の重い
住宅街にある公園の木製ベンチで、少年は大きなランドセルを横に置き、小さな身体をさらに縮めるようにじっと俯いていた。
夕焼けチャイムが鳴り響く中、他の小学生達は、笑い合いながら名残惜しそうに公園を後にする。
遠くの夕陽の残り火が辺りを照らして
「また、こんなところに一人でいるの?」
鎖骨より少し下くらいまであるふんわりと波打つ栗色の髪を耳に掛けながら、女子高生が少年に微笑んだ。
寒くない?と付け加えて、返事を待たずに少年の隣に腰を下ろす。
短いスカートから伸びるモデルのように長い脚をそっと組んで横を覗き込むと、少年は硬い表情のまま少し笑った。
「…お姉ちゃんこそ」
「私は高校生だから寄り道していいの。君はまだ子どもでしょ?」
「…でも、家に帰りたくない」
「そっか。お母さん達、まだケンカしてるの?」
すると少年は、一瞬遠くの土を見つめたまま固まったが、静かに頭を横に振った。
「…マ…お母さんは、出てった。でも、今度はお父さんとおじいちゃん達がケンカしてる」
少年の家庭環境が複雑なことは、数回ここで会ったことがあるだけのこの女子高生にもなんとなく察することが出来た。
まだ小さくてか弱いこの子が、大人びた瞳で淋しそうに遠くを見つめる横顔はとても美しかった。
その姿に、女子高生はひと目見た時から心を奪われていたのだ。
陶器のような青白く滑らかな肌、人形のように大きな瞳と長いまつ毛、色素の薄い緑がかった柔らかな髪の毛、そして、ぽってりと艶やかな赤みのある小さな唇。
少年には、海外の子どものような中性的で神秘的な魅力があった。
まだよく知りもしない自分のことを純粋に慕ってくれるこの子を見ていると、胸の高鳴りすら感じる。
なんて綺麗なんだろう。
なんて儚いんだろう。
自分の手元に置いて、ずっとずっと眺めていたい。
「お姉ちゃん?」
「ん、ごめん。何て言ったら良いか分かんなくて……そうだ、これ食べる?」
女子高生は自分のカバンの中から飴の大袋を取り出した。中には、白地に苺柄がプリントされた包紙の小さな飴がたくさん入っている。
「ううん、大丈夫」
「そう?」
包紙を一つ取って、女子高生はその三角形の薄ピンク色をした飴を口の中に入れる。
酸味のあるいちごと濃厚なミルクの風味が一気に口に広がった。
「お姉ちゃん、いつもその飴舐めてるね」
「ふふ、なんとなく、かわいいからつい買っちゃうんだ。…あ、ヨータ君もやっぱ食べたくなっちゃった?」
「…へへ、食べたい…けど、夕ご飯食べられなくなっちゃうから。そしたら、パパが心配するから」
「そっか、えらいね」
恥じらう少年の頬はピンクに染まった。その顔で警戒心なく笑いかけられると、女子高生の胸は張り裂けそうだった。
触れたい。
衝動的にそう思った。
だけど、そんなこと許されるのだろうか。
でも…。
「…でも、ちょっとだけならいいんじゃない?」
「え?」
女子高生は自分の甘い唇を少年の唇に重ねた。そして、今の今まで女子高生の口の中で転がされてすっかり小さくなった飴を、少年の口の中に押し入れる。
唇を離すと女子高生はしっかり目を合わせて微笑んだ。そうすると、唇のすぐ横のほくろが口角に合わせて怪しく引き上がる。
「甘くておいしいでしょ?」
そして、青白い顔をした少年を安心させようと、頬を優しく撫でる。一度触れてしまったら最後、美しい唇やまつ毛、柔らかな髪へと、次々に手が伸びてしまう。
「あれー、貴子ー?」
女子高生が振り返ると、公園の出口に面した道路から他の女子高生数人が手を振った。
「やっぱり貴子だー!何してんのー?」
すると、何も答えないまま、女子高生は笑顔で友達に手を振った。
強張った表情で少年も後ろを振り返る。
「ウチらファミレス行くけど行くー?」
「…あー、うん、行くー!」
女子高生はすぐに立ち上がると、少年に、じゃあまたここで、と満足そうな笑みを浮かべて走り去って行った。
辺りはすっかり暗くなり、すぐ側の街灯がベンチだけをぽっかりと照らしていた。
しばらくして、少年も立ち上がろうとしたが、力が入らずに地面に座り込んでしまう。
口の中に残った甘ったるい、いちごとミルクを感じると、気持ち悪さが込み上げてくる。
そのまま口の中の異物を吐き出すと、その勢いに任せて、その場で何度か嘔吐した。
その時、少年は悟った。
誰も自分を救ってはくれない。
手がどんなに冷たくなろうとも、深緑色をした硬い鉄製の肘置きだけが、この時少年が唯一頼れる物だった。
「そーいや、安くんってスカートとか着ないのかな」
「さー、いつもあんなんじゃん。着ないんじゃね?」
「えー、着てきてほしいー!よく見ると綺麗な顔してるしさ、女らしい格好も絶対似合うと思うんだよね」
「あー…あれ、なんか、宝塚目指してたんじゃなかったっけ?」
「え!じゃ、あれ男装?」
「いや、知らんけど」
「知らんのかい」
廊下で他クラスの女子が笑い合いながら歩いているのを尻目に、耀太は職員室のドアを開いた。
黒髪のショートカットで飾りっ気のない、少年のような安田が自分の席から耀太に向かって手招きをする。
「来たか、中村。もう大丈夫なのか」
何がとは口にしなかったが、ストーカー事件のことを言っているのだと耀太は察した。
だが、犯人は逮捕されたし別に答えるようなことは何もない。
耀太がラブレターを他の女子に横流しにしたことに関しては、ストーカーへの恐怖で精神的に不安定だったと判断されて、一部の関係者だけに留めておく事実となった。
これは、安田の計らいによるものらしく、反省文の提出だけで許してもらえるようだ。
さすが安くん、と耀太は内心ほっとしていた。
そして、まさに今、書いて来た反省文を手渡した。
「安くんってさ、なんで女っぽい格好しないの?結構美人なのに」
すると、安田が珍しく照れ臭そうに目を逸らした。
「…いきなり、どうした」
「さっき女子達が噂してた」
「…別に、楽だから。それに、この方が接しやすい奴もいるだろ」
「あー、確かに、男みたいで喋りやすいわ。俺、女らしい人って苦手」
「…女に愛想振りまいてる奴が言うセリフか?」
安田が疑うような目つきでそう言うと、耀太は気まずそうに笑った。
「でも、生徒のためとか、意外ー。安くんのくせに」
「おい、教師をなんだと思ってんだ」
すると、耀太は無邪気に声を出して笑った。
それを見て、安田も嬉しそうに微笑んだ。
そう、君に笑ってほしくて、私は自分を変えたんだ。
気付かれないように、慎重に君にまた近づくために準備した。
この学校で再会した時、すぐに気付かれて、また逃げられてしまうかもしれないと思った。
けれど、君は私の名前を覚えていないようだった。
無理もない、君は幼くて、私のことをいつもお姉ちゃんと呼んでいたから。
でも、あまりにも気付かれないと、それはそれで寂しい。
だから、手紙で色々と探りを入れるようなことをしてごめん。
悪い癖だ、急に距離を詰めたがるのは。
でも、君が私のことを全く覚えていないこと、そして、私のせいで女を毛嫌いしていることが良く分かった。
君は自覚してないようだが、あの頃の私に似た女ばかりを弄んでいる。
でも、私にとっては好都合なことばかりだ。
おかげであのストーカー女に罪を被せることが出来た。
あれから、あのベンチで待っても待っても君に会えなくて、あの時急ぎすぎたことを後悔した。
だから、必死に居場所を突き止めて、教師になって、自然に接点が出来るのを待っていた。
そして、今度は間違えない。ゆっくりと君を手に入れよう。
「タカコーー!」
二人が振り返ると、職員室のドアから演劇部の女子が顔を出して激しく手招きをしていた。
安田は呆れた表情で渋々席を立つと、その女子の元に近づいていく。
去り際、耀太にじゃあな、と微笑む。
表情に合わせて上方へ移動する口元のその小さなほくろから、耀太は目が離せなかった。
「下の名前で呼び捨てすな」
安田が職員室の入口で、丸めたプリントを使って軽く女子のおでこを叩くと、きゃはは、と楽しそうに声が上がった。
「じゃあ、安くんでいいからさ、ちょっと来て」
「なんだよ。ここで話せないのか?」
「次の公演で使う大道具見てよ。つーか、『安くん』なら良いんだ」
「…それは、許容してる」
女子は、また、きゃははっと声を上げて笑いながら、安田と二人でどこかへ消えて行った。
安田が職員室を出て行っても、耀太はその場に立ち尽くしていた。
先程、安田が名前を呼ばれた瞬間、心臓が冷たい何かで掴まれたような感覚がして、腕は今も鳥肌が立ったままだった。
でも、これが一体何を意味するのか、耀太には分からなかった。
安田が職員室に戻ると、当然ながら耀太の姿はもう見当たらなかった。
ちょうど部活動の時間とあって、教員の姿もまばらである。
そのまま窓際に向かうとポットのお湯でインスタントコーヒーを作り、マグカップを片手に自分の席に着く。
ひと口飲むと、温かいため息が自然と溢れた。
そして、癒された状態を保ちつつ、流れるようにイヤホンを耳に着ける。
すると、遠くから音楽が聴こえる。
この少し掠れた哀愁漂う声は、名取光一だ。
毎日のように聴いている内に、すっかりファンになってしまった。
目を瞑ると、すっと身体に溶け込んでくる。
今の時期にぴったりのどこか切なく美しい歌声に、安田はしばらく酔いしれていた。
『…ガサ、ガサゴソガサ…』
急に物音がイヤホンから聞こえて来た。椅子を引くような音も遅れて聞こえる。
安田はハッと目を開けた。
『…あれ』
人の声が混じる。若い男の声。遠ざかっていく。
安田は集中して聞き耳を立てる。
『父さん、今日は早いじゃん』
『ん、ああ、耀太も早かったんだな』
『今日は部活休みだったから』
『なんだ、それなら一緒に外食でもすれば良かったな』
『いいよ、別に。俺、軽く作っといたよ。豚キムチ』
『おー、耀太の得意料理!』
『…つっても豚とキムチ混ぜて焼いただけだけど』
『いやいや、シンプルなのが一番美味いんだ。ありがとな』
声はどんどん遠のいて、ついに何を言っているのか聞き取れなくなった。
代わりに名取光一は相変わらず歌っている。
安田は、目の前のパソコンで『二年E組_生徒情報』の『中村耀太』のシートに、“得意料理:豚キムチ”と付け加えて、満足そうに頷いた。
やはり、盗聴器をペンケース内のシャーペンからユニフォーム型のストラップの中に変えたのは正解だった。
部屋の中から廊下くらいまでなら声が十分聞き取れる。
けれど、リビングまで行ってしまうとやはり無理があるようだ。それは、別で対応を考えなくては。
ふう、ひとまずこんな所か。
イヤホンを耳から外して、大きく伸びをした。
愛を隠すなら恋の中 せかしお @25air-7
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