10月8日(金)
19 椿 欲張りな兎
椿が中庭から見上げた四角い空は、一面真っ白だった。正確には、濁ったグレーなのだろうけれど、薄汚れた校舎の外壁の色に比べると少しだけ明るく感じる。
朝、ニュース番組で見た時には、夕方から雨が降る予報になっていた。こんなに何もない空なのに、その予備知識があるだけで、まだお昼の今にでもポツポツと降ってきてもおかしくないような気がしてしまう。
直射日光がないと、昼間の中庭はこんなにも冷たく感じるのだろうか。椿は一人、身震いをした。
ここ数日、ラブレターの差出人を探して、一番怪しいとされた二人を調べた。そして、得られた成果は、そのどちらとも差出人の可能性は低い、ということだけだった。
思惑通りにことが進むはずはない。そんなことは分かってはいても、何か解決の糸口くらいは見つかるのではないかと、椿は当初、淡い期待を寄せていた。
「…じゃあ、やっぱり…」
呟いた言葉は、すぐに冷たい空気に溶け込んで白い空へと消えていった。
片岡が気になることを言っていた。もしそれが本当に関係があるのなら、あの人を自力で探るしかないのかもしれない。
「あれ、椿ちゃん一人?立花は?」
考え込んでいると、突然聞き慣れた声が耳に飛び込んできて、急速に心臓が冷やされた。
顔を戻すと、耀太が目の前で微笑みを浮かべている。
頬杖を突いていた両腕を、平静を装いながらそっと机の上に下ろした。
「物思いにふける椿ちゃんも…いい!」
山崎が耀太の肩越しに太陽のような笑顔を向け、当然のように椿の横に座る。最近、恥ずかしいことを平気で言ってくる山崎にも、少し慣れてきた。
「ゆい子は用事があるって言ってた。後で連絡するって」
「ふーん、そっか。あれ、椿ちゃん寒いの?オレの上着使いなよ」
断る間も無く、山崎が自分のブレザーを椿の肩から掛ける。
椿は自分でも気づかない内に、腕をさすっていたらしい。うっかりカーディガンも羽織らずに教室を出てしまったが、さすがに外は肌寒かった。
山崎のブレザーは、大きくてずっしり重かった。でも、その重さが羽毛布団にくるまっている時の感覚に似ていて、熱が逃げることなく
「ありがとう。山崎くんは寒くない?」
そう返すと、むしろ暑いくらいだと、ワイシャツの袖をまくりながら笑った。
「で、この後どーする?」
徐に弁当を取り出しながら山崎が尋ねると、耀太が少し考えながら話し出した。
「…うーん、あの二人が違うとなるとな。接点とか関係ないなら、もう誰が差出人でもおかしくないし。正直、このまま続けるかどうは立花次第だと思う」
椿も、そうなるだろうと思っていた。
「だよなー。って肝心のゆい子いねーし。オレらアイツのために集まってんのになー」
山崎は、お弁当の蓋を開けてハンバーグに箸を付けた。大きく切り分けた一欠片を口に入れると、すぐにその二倍くらいの量のご飯をかき込む。あっという間に飲み込むと、再び話し始めた。
「つーかさ、なんでゆい子って差出人見つけたいんだっけ?」
「あー、本人に聞きたいとかなんとか、言ってなかった?…まあ、誰からなのかはっきりしないと恐いっていうのは、分かるよ」
耀太がコンビニのビニール袋からコロッケパンを取り出して包装袋を開ける。二人に続くように、椿も弁当を取り出し、両手を合わせる。
「でもさ、ここ数日オレら嗅ぎ回ってるけど、別に差出人からアクションもないじゃん。もう無視でいんじゃね。それに、ゆい子自身が本当に見つけたいのかも怪しいし」
「え?」
椿が顔を向けると、山崎は口いっぱいに頬張ったハンバーグとご飯を急いで咀嚼しながら、手のひらで、ちょっと待って、の意味を示した。
「いやさ、ゆい子ってなんていうかその、最近忙しそうじゃん?」
山崎は、最近、と言った。
けれど、今は、部活はほぼないし、ゆい子はバイトもしていない。椿がそばにいて忙しい様子は感じ取れなかった。
「あー、俺もなんかこないだ噂で聞いたけど、本当なんだ」
どうやら、耀太も何かを知っている様子だ。椿が知らないことを。
「いや、オレも実際その場面は見てないけどさ。ただ、ゆい子が休み時間とかに男と二人でいるとこは何回か見たからさ」
椿が全く要領を得ない顔を向けると、山崎が察した様に椿に向けて話し出した。
「ゆい子から何も聞いてない?なんかね、あいつ最近、何人かに告白されてるらしいよ」
「ラブレターもらったっていうのが広まって、立花、密かに話題の人になってるっぽいよな。告った奴らは、冗談半分なのかは知らないけど、あの手紙がきっかけで行動したのは確かじゃないかな」
「そうなの!?…そういう話、全然しないからなあ」
椿は、それを聞いて、ここ最近、というより出会ってからこれまでのゆい子の言動に合点がいった。あの子の頭の中ではここまで計算されていたわけだ。
「そー。だからさ、別にラブレター野郎のことなんて、気にする必要ないんじゃないかと思って」
その通りだと、椿も心の中で深く同意した。
あの子にとって、ラブレターの差出人は、“もう”必要ではないのかもしれない。この場にゆい子がいないことが、それを証明している。
昨日の残り物の肉じゃがを、椿は箸で摘んで口に運ぶ。昨夜はおいしいと感じたが、今は別物のように感じる。冷えきって硬くなった肉のせいか、味が染み込みすぎて甘さが強く感じるにんじんのせいか、とにかくおいしくなかった。
三人が食事をしていると、少し離れた隣のテーブルから急に歓声のような声が上がった。思わず顔を向けると、二人の女子が校舎の中に視線を向けながら、手を取り合ってはしゃいでいる。
女子の視線のさらに先に目を向けると、中庭と校舎を隔てる窓の向こう側の廊下で、パンツスーツ姿の安田と、たまに英語の授業に顔を出す外国人講師のケイトが立話をしているのが見えた。
安田は、三者面談のためか、今週は午後になるとずっとあの姿なのだが、普段のジャージ姿とはかなりギャップがある。
女子達は、「ヤバくない!?」「そこら辺の男子よりかっこよくない?」「実はけっこう好きなんだよね、やすくん」「分かるー、スタイル良いしね」「てか、やすくん英語ペラペラなんだよ」「ガチ?なんで。安くん現国じゃん」「知らんけど。留学してたんだって」といった感じのことを話している。
「安くん、スーツのが老けて見えるよな」
同じ光景を見ていた山崎が口を出した。
「いや、年相応じゃね?25、6っしょ。ジャージのが若作りなんだって」
「えー私は普通にカッコいいと思うけどな。なんか、宝塚みたいな感じ」
外の声が廊下まで聞こえたのか、安田が一瞬こちらに視線を向けたが、ケイトと話が終わるとすぐに職員室に入っていった。
結局、ゆい子は中庭に現れなかった。携帯に連絡もないので、何かあったのではと気になり、椿達は早めに戻ることにした。
教室には、クラスの三分の二ほどの生徒がいた。女子はグループごとに机を寄せ合い、昼ごはんを食べながら談笑している。男子は、読書をしていたり自習をしていたり、静かに一人で過ごす人しかいなかった。他の男子は、おそらくまだ校庭でサッカーをしているのだろう。
この中で、一際騒がしいのが窓際の一番後ろの席。華がサンドイッチを手にして豪快に笑っていた。その一つの小さな机に弁当を広げている女子が他に二人。向かい側に座って手を叩いて笑っているのが奈緒子。机の真横に付けた椅子に腰掛けて、二人を喜ばせるような話題を提供していたのは、ゆい子だった。
さらに盛り上がるべく何かを話し始めようとした華が、教室に入ってきた三人、というより椿に気付いて一瞬気まずそうな顔をした。けれど、すぐにニヤニヤと笑いながら、声のトーンを落としてゆい子に何かを伝える。それを見て、奈緒子がちらっとこちらを確認して静かに笑う。
ゆい子は、一言、二言、華と会話をすると、こちらに振り向いて笑顔を見せた。ゆっくりと立ち上がり、いくつかの女子の塊の合間を縫って近づいて来る。
「みんな、ごめーん」
ゆい子は、ヘラヘラと笑っている。
「は?なんで来なかったんだよ」
明らかに不機嫌そうな山崎を見ても、ゆい子の表情は変わらない。
「えー、だって、華達に捕まっちゃったんだもん。たっくん怒んないでー」
そう言って腕に軽く触れたゆい子の右手を、山崎はすぐに振り払った。
「別に怒ってない。けど、もうやめるって言うならそれでいいと思ってるから。オレは」
ボリュームを無理矢理抑えたような低い声を吐き捨てた山崎に、ゆい子は間の抜けた返事をした。
「何が?」
すると、山崎が無言でじとっとした目を向ける。その表情でゆい子はやっと意図を察した。
「…あー、ラブレターのことね」
周りの目も気にせずにはっきりとそう言うと、不意に視線を外した。
「ねぇ、耀太くんはどう思う?」
急に話を振られて一瞬戸惑いを見せたが、耀太はすぐに口を開いた。
「…別に、どっちでも。立花が何を考えてるのか次第かな」
「またそれ?」
ゆい子は不敵な笑みを浮かべ、真っ直ぐに耀太の目を見てから言葉を続けた。
「じゃあ、まだやめない」
しかし、その言葉はすぐに覆されることとなる。
その日の放課後、ゆい子の下駄箱に、再び一通の手紙が入っていたから。
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