16 椿 シンパシー
四階の空き教室の窓を開けると、涼しい風が室内に荒々しく吹き込んでカーテンが勢いよく舞い上がった。椿と片岡は、慌てて窓を少し閉じて笑い合った。窓の桟に並んで寄りかかり、わずかな隙間から通り抜ける風を楽しむ。
今日、三者面談を控える者同士、一番目の生徒が終わるのをこの空き教室で一緒に待つことにしたのだった。
「片岡ちゃんって…もう進路決めてる?」
「あ…うん」
「そっか…どこの大学?」
椿がそう尋ねると、片岡は一瞬視線を逸らして一拍置いてから、もう一度椿の目を見た。
「…あのね、まだ誰にも言ってないんだけど…実は私、声優になりたいんだ」
「え、そうなの?」
椿が瞳を輝かせながら、すごい、と付け加えると、片岡は恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに、思い描く将来像について
「でも、専門にするか大学にするか、まだ悩んでる感じかな」
「そうなんだ。…でも、本当すごい。もうやりたいことが決まってるなんて」
「いやー、分かんないよ。挫折するかもしれないし」
自虐混じりの笑みを浮かべた後で、片岡は思い返したように今度は椿に、志望校とか決まってる?と尋ねた。
すると、椿は微笑みながらも思わず俯いた。
「あ、うん、一応、志望校はいくつか。前、先生にこの辺なら狙えるって言われたところ。…でも、将来やりたいことは、私は全然分からなくて…」
片岡は、そっか、とだけ呟いた。
この手の相談を他人にしたところで、相手だって答えに困ることは分かっている。
これは自分で決めなければならないことで、例えば相手が選択肢を提案してくれたところで、それに何の意思もなく乗るのは違うということも理解している。
けれど、それは分かっていても、たまに不安でどうしようもなくなってしまうことがあるのだ。
数日前、帰りの電車でほんの数駅の間、たまたま山崎と二人になった。その時も、そういう不安定な状態だったのかもしれない。
揺られる電車の中で、つい今と同じように、将来への漠然とした憂慮を口にしてしまったのだ。
山崎は何の迷いもなく、サッカーの推薦で大学に進学することを決めている。
耀太は、建築学を学ぶために国立も視野に入れて志望大学を絞っていると話していた。
自分と同じく何も決めていないと思っていたゆい子ですら、保育士になるため短大に行くと言っていた。
みんな、それぞれ、知らないうちに自分だけの考えを得て、進んでゆく。
胸中を全ては語らぬまま軽いノリを装って本音を吐露すると、山崎は、明るく、大丈夫だと笑った。椿ちゃんなら何にでもなれるよ、と。
それは、山崎の純粋な優しさだと言うことは十分理解できたが、心が軽くなることはなかった。真剣に悩んでいるのが悟られないように話したのだから分かるはずもないのに、全く根拠のないその言葉を無神経だと感じ、身勝手にも苛立ちすら覚えてしまっていた。
それを隠すように椿が黙って微笑むと、山崎はこう続けた。
“そういうのは、とりあえず、大学入ってから見つければいいんだよ”
「――って、よく言われるよね」
気づけば、隣にいる片岡が口を開いていた。まるで、山崎の言ったセリフを引用したかのように。静かに驚く椿を余所に、片岡は続ける。
「でもさ、私は、ちゃんと今、頑張って考えた方が良いと思う」
真っ直ぐに自分を見つめる片岡の瞳の強さに、椿は思わず引き込まれた。
「それが後から考えたらどんなに稚拙な考えでもさ、今考えることに意味があるんじゃないかな。自分が何を好きかとか、どんなことに興味があるかとか。仕事とか職業に縛られずに考えてみたらどうかな。今考えたことが後から変わっても良いんだよ。だって、新しい考えが出て来た時に比較できるから。今の時点での結論を出しておかないと、大学に入っても結局ふわふわ同じことで悩むだけだと思う」
真剣な表情で一気に言い終えた片岡が横に顔を向けると、椿は口を小さくぽかんと開けて、片岡を見つめていた。
「あ、ごめん!何か急に偉そうに語りだして…ウザいよね。ええと、つまりね――」
「すごい…」
「え?」
「片岡ちゃんって本当に私と同い年?何か、すごく、胸に突き刺さった。そうだよね、もうちょっと頑張って考えてみる」
何も解決はしていない。それは、山崎と話した時と同じだ。
けれど、片岡が、瞬間的に喜ばせようとか、気に入られようとか、そういったことを全く考えず、純粋に自分事として考えて発言してくれていることが、椿には分かった。それが、椿の心を少しだけ軽くした。
片岡は、嬉しそうに笑って頷くと、その後で、申し訳なさそうに口を開く。
「…実はさ、この話、ほとんど安田先生の受け売りなんだけどね」
「え?そうなの?さすが安田先生。でも、ちゃんとやりたいことに向き合えてる片岡ちゃんも、かっこいいよ」
「…ありがとう。あ、そういえば、このイメチェンも安田先生に背中押してもらったんだ。声優になるなら、今は見た目も大事だし。髪型とかも色々アドバイスしてくれてね」
片岡は少しだけ頬を赤く染めながら、自分の栗色の髪の毛を触った。
「え、安田先生ってそういう相談も乗ってくれるんだ」
「ね、意外だよね。なんだっけ、見た目を少し変えるだけでも望むものが手に入りやすくなる、とかって。先生もそういう経験があるのかもね」
椿と片岡は、同時にふふっと笑った。
冷たい隙間風が心地よい。荒々しく揺れる木の葉が擦れる音も心地よい。話していても、裏の意図を考えなくて良い相手も心地よい。椿はぼんやりとそんなことを感じていた。
「…あ、ねぇ、そういえばさ」
しばらくして、片岡が思い出したように、しかし、言いにくそうに話を切り出した。
「この前…新聞のこと調べてたでしょ?あの五部の共通点は、その…中村君が載ってることだって、話したよね。あれって…立花さんがもらった手紙と何か関係あるの?」
「え…あー、どうだろう」
反射的にはぐらかすような言葉を口に出してしまったが、片岡に隠す必要性があるだろうかと考えた。全て話してしまっても、片岡が安易に他の子に秘密を話すようなことはしないだろう。その一方で、片岡に悲しい思いをさせる可能性も否定できない今は、まだ話すべきではないという考えも浮かんでくる。椿は、後に続ける言葉を探していた。
そんな椿の心情は当然伝わらず、片岡は意を決したように口を開いた。
「…あのね、実は――」
ブーブーブー。
椿がスカートのポケットから携帯を取り出すと、画面に母親の名前が表示されていた。着信音の代わりにバイブレーションの重低音が辺りに響く。
「あ、片岡ちゃん、ちょっとごめん」
椿が簡単に話を済ませて電話を切ると、申し訳なさそうに片岡の方を振り向いた。
「お母さん、着いたみたい」
片岡は、いってらっしゃい、と椿を笑顔で面談に送り出した。
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