第1章 発端編
10月4日(月)
1 ゆい子① 主人公に戻るための朝
『E組の立花ゆい子がラブレターをもらったらしい』
そんな噂が知れ渡ることを、この時、ゆい子はすでに直感していた。
暦の上では秋のはずなのに、完全に夏が居座り、汗がまとわりつく朝、ゆい子は目を疑った。
耳を疑う、とは良く聞くが、それは他人の言葉が信じられないことを指す。
しかし、今は、自分の見たものが信じられない。
間違いなく自分の下駄箱。その中に普段通り、お行儀よく収まる22.5センチの小振りな上履き。
そして、その上にそっと置かれた白い紙。それだけが毎朝見ている景色とは違い、異彩を放っていた。折り畳まれていて中身は見えない。
ラブレター?
いや、まさかね。
ゆい子は自分を期待させ過ぎないように、すぐに否定した。
封筒に入っていないことから、誰かが自分のものと間違えて入れた学校のプリントの類かもしれない。もしくは、
それにしても、わざわざ下駄箱に入れるだろうか。別の誰かが意図して自分の下駄箱に入れたと考える方が、違和感がない気もする。
ゆい子の心は両極端の思考の間で留まることなく揺れ動いていた。
そこへ、朝練を終えた運動部員の、騒がしく楽しそうな声が玄関に飛び込んできた。
それとは対照的に、静かに凛と佇む目の前の紙。もう一度しっかりと見据え、恐る恐る手に取る。
それは、封筒には入っていないが、丁寧に三つに折られていた。ゆっくりと慎重に開く。
「うわっ」
ゆい子は思わず突き飛ばすようにその紙を手離してしまった。
空気の抵抗をほぼ受けずに垂直に落ちた一枚の紙は、正面玄関に敷き詰められた焦茶色の冷たいタイルに接触して乾いた音を立てた。
横たわる紙は三つ折り状態に戻っていたが、隙間から中の文字が少し見えている。
やはり見間違いではないようだ。
『脅迫状』
その三文字がゆい子の脳裏をかすめた。
新聞なのか雑誌なのか、紙に文字が切り貼りしてある。たったそれだけで、一瞬で恐怖が全身を走り抜けるほど、物々しい雰囲気を放っていた。
ゆい子は頭をぶるぶると横に振った。
ドラマの見過ぎだ、と心の中で自分を戒める。
なにも、刃物だとか得体の知れない粉だとかが入っていたわけでもないのだから。
制服のスカートを後ろから手で抑えながらその場にしゃがみ、その紙をタイルの上に寝かせたまま、もう一度そっと開いた。手紙だ。心の中で一文字ずつ解読していく。
『届』『き』『そ』……
『届きそうで届かナイ
こんなにも想っていルのに
月が主役に戻る頃
あの日あの場所で待っています
Y.T.』
…これ、ラブレターだ!やっぱりラブレターだった!
私、生まれて初めてラブレターをもらっちゃったんだ。
ゆい子は、気づけば手紙を両手で掴んで立ち上がっていた。さっきまであんなに腫れ物を触るみたいにしていたのに、ラブレターだと分かると急になんだか清らかな物のような気がしてくる。
でも、誰からなんだろう。
『あの日』はいつで『あの場所』とはどこのことだろう。
それに、なぜこんな風に切り抜きにしたんだろう。
何度見返しても、謎に対する答えが浮かんでこないまま、ゆい子はその場に立ち尽くしていた。
「…立花?…何してんの?」
声のした方へパッと顔を向けると、上履きを履いた
「あ、耀太くん、おはよ」
へへ、とにっこり笑ってみたが、耀太はゆい子の顔をもはや見てはいなかった。
視線はもっとずっと下、首、胸を通り越してお腹辺り。そこには両手でしっかり握られた手紙がある。
「あ!」
ゆい子はとっさに手紙を背中の方に隠した。
こちらを無言で見つめる耀太の顔は、ほんの少し強張っているように感じる。
「あー、えーと、見えちゃった…よね?」
その質問に対して、耀太は気まずそうに何かを言おうと口を開きかけたものの、そのまま黙って頷いた。
ゆい子は観念したように、後ろに回していた腕を再び前に持ってきて、手紙を開いて見せた。
「…これね。今日来たら、私のとこに、入ってたんだ」
耀太は手紙に一瞬だけ視線を落とすと、くっきりとした綺麗な二重を纏った瞳で真っ直ぐにゆい子を見据えた。普段よりも少し低い、落ち着いた声で重そうな口を開く。
「…これ…脅迫…」
「あ、違うよ。ラブレター」
明るく否定すると、耀太は驚いた表情を見せた。ゆい子が、あはは、と笑って見せても、固く気まずそうな顔に逆戻りしてしまうだけだった。いつもの冷静な耀太ではないような、どちらかというと少し怯えているような、神妙な顔付きだ。
「え…これ、立花…に?」
「うーん、たぶん。宛名は書いてないけど、私のとこに入ってたし」
「じゃなくて…それだけ?」
依然として様子を窺うような目つきで耀太はゆい子を見た。
「え?」
「…それ、どっち?本音は?何か…例えば、言いたいこととか…ない?」
「…えっと、言いたいことって…この人に?私が?」
何を聞かれているのかよく分からずに、ゆい子は黙ってしまった。
その間も耀太は、普段と違う少し恐い顔付きで、何かを咎めるように自分を見つめている。そうやって見られているうちに段々と、その目にはゆい子もよく知る感情が乗っているのではないかという、確信めいた思考が生まれてきた。
しばらくすると、耀太は、やっと何かを解放したかのように笑った。
「ごめん、何でもない。…なんて言うか…変わった奴から好かれちゃったね」
いつもの爽やかな耀太に戻ったことに、なぜだか少し残念な気持ちが芽生えながらも、ゆい子は釣られて笑った。
「あれー耀太ー?」
「おーい、耀太ー?」
「もう行ったんじゃね?」
山崎とサッカー部員が耀太を探す声が聞こえる。
それに反応して耀太は、じゃあ、と他人行儀にゆい子に微笑んで玄関ホールから階段の方へと向かった。
ゆい子は自分の下駄箱から上履きを取り出しながら、先程の耀太が口にした言葉を頭の中でぼんやりと反芻して意味を探していた。
そして、ローファーを下駄箱に入れてパタンと閉めた時、ある言葉が色濃く頭に浮かんだ。
『嫉妬』
もしかして、そうなのかもしれない。
何かが動き出す予感がして、ゆい子は走り出さずにはいられなかった。
階段を昇り始めていた耀太の元に駆け寄って、ワイシャツの裾を掴んだ。少し背の高い耀太の顔を見上げる。
「…耀太くん、これ、どうしたらいいと思う?」
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