2 ゆい子② 掌上に運らす

今日から三者面談が始まるため該当の者は残ること、短縮授業となるので今週は放課後の部活動はない。以上。

 

担任の安田やすだが朝のホームルームで伝えたことはこの二つだった。

 

他愛のない世間話やその他の余計な情報は一切なしの非常にあっさりしたもの。

というより、二年に進級してからの約半年間、こってりしたホームルームなんてゆい子の記憶にはないくらいだった。

 

「あっ椿ちゃん、待ってー」

 

ゆい子が声を掛けると椿がすぐに振り向いた。その反動で、長くて艶のある髪がサラッと踊る。

シャンプーのCMかミュージックビデオでしか見ないような光景。

同性の、しかもいつも一緒にいるゆい子でも、不覚にもドキッとしてしまった。

 

真っ白で華奢な左腕は、英語の教科書とノート、そして筆記用具の入ったポーチを胸の前で支えている。椿は一限目の教室に向かおうとちょうど席を立ったところだった。

 

この高校は一応進学校だ。

『一応』というのは、昔は有名な進学校だったものの、今となっては名ばかりだということを意味する。

段々と偏差値が落ち、近隣のライバル校に差をつけられ始め、ここ最近になってようやく、何とか巻き返そうと試行錯誤している状態なのだという。

安田がそんなことを話していたのを、“珍しく饒舌だった安くんの話”としてゆい子は覚えていた。

 

その試行錯誤の一策としてなのか、英語と数学の授業は同じクラスでも成績ごとに『上下』二クラスに分かれていた。

ゆい子は『下』クラスなので自分の教室で、椿は『上』クラスなので四階にある空き教室で授業を受ける。

 

「あのね、実はラブレターもらっちゃった。へへ」

 

ゆい子がこっそり耳打ちすると、椿は一瞬驚いたものの、すぐに微笑んだ。

 

「良かったね。さっきざわついてたのそれだったんだ」

 

本当は椿ちゃんにだけに言うつもりだったのに、としょんぼり肩を落とすと、椿はまた静かに微笑んだ。

 

「あ!それで、もらった手紙なんだけどね、ちょっと変わってて――」

 

「ねーー!ゆい子ーー!」

 

急に大きな声で呼ばれて振り向くと、華が教室の後ろで手招きをしていた。相変わらず遠目でも分かるほどの派手めなメイク。隣にはニヤニヤと笑う奈緒子なおこもいる。

なにー?と遠くに声を投げると、ちょっと来てーと返って来た。

 

すると椿は、また後で話聞くね、と小さく手を振って教室の出口に向かった。

 

椿はただ普通に歩いている。

それなのに、それだけで周りの空気が微かに揺れるのがゆい子には分かる。

まるでそよ風が木々の葉っぱを揺らしていくみたいに、椿が通ると周りの人が次々に視線を送る。

みんな、自分が誰かと会話をしていようが、席を移動している最中だろうが、教科書を準備していようが、忘れていた宿題をやっていようが、無意識にふとした拍子に椿を見つけてしまう。

 

そう分析するゆい子も、今までだったら椿の後ろ姿を目で追ってしまう一人だった。でも、今は、今日からは違う。振り切るように椿に背中を向けて、華たちの元へと足を進めた。

 

「なんであんなのといつも一緒にいんの?」

 

近づいて来たゆい子に、開口一番、華は冷たくそう言った。詳しくはゆい子も知らないが、華は椿のことを良く思っていない。

噂によると、二年になってすぐの頃、友達になろうとして華から声を掛けたが、椿が塩対応だったとかなんとか。それで、自分と同じように目立つ椿のことが目障りになったとか。なんとか。そんな感じのことを耳にしたことがあった。

 

「あれ華、香水変えた?…てか、今日いつにも増してメイク濃くない?」

 

「わかるー!?いいでしょ!今日、前から気になってた先輩達とデートなんだ!ね、奈緒子っ」

 

華は少しハスキーボイスだが、その声はよく通る。

本人は気にしている様子はないが、教室内で話している内容がみんなに筒抜けになっているということはよくある。

 

今も何人かがこちらの様子を伺っているみたいだが、華は気付いていないようだ。

 

「えー?華、あのG組の彼氏は?」

 

「いつの話してんの。夏休みに別れたし。…てか、ゆい子、一回しか遊んでないのにあいつのこと覚えてんだ」

 

華の彼氏とは一年の時から何回も話したことがある。けれど、ゆい子はそれを今は黙っていることにした。

 

「ねぇ、それより!あんたラブレターもらったの?」

 

「ねー!誰から?」

 

奈緒子も興味津々といった様子でゆい子を見つめた。

 

「えー、恥ずかしいんだけど。もう忘れてよー」

 

手で顔を覆ってそっぽを向いた。これで許してくれることを願いながら。

 

「何もったいぶってんの、ウチらの仲じゃん。で、誰から?」

 

ゆい子の手のひらを顔から引き剥がしながら、華は問い詰めた。やっぱり許してくれるわけはない。

 

「…私にも分からないんだもん。イニシャルだけだから」

 

イニシャルって?という華と奈緒子のさらなる圧に耐え切れず、ゆい子は正直に答えた。

 

「Y.T?誰?このクラスにいたりして!」

 

二人はクラスの男子の名前を片っ端から唱えては、違う、違う、と言っている。

それにはさすがに、多くの人があからさまに視線を送ったが、当の本人達は気にする様子もない。

 

しかし、そのたくさんの視線は、二人の斜め後ろに急にスライドした。

 

「えーーー!片岡ちゃん!?」

「うそー!どーしたの!?」

 

歓声に似た沸き上がるような声が響いたのだ。教室の後ろのドア付近に女子が三、四人集まっていく。

その集合体の中心には、珍しく遅刻して来た片岡優美がいた。

 

片岡は真面目で頭が良く気さくな性格で友達も多い。ただし、見た目はどうにも地味だった。

いつも腰まである黒髪をぴっちり後ろで一つに結んだメガネ姿。スカートは膝丈で紺色の長い靴下との間に見える肌は五センチ程。

いろんな意味で隙がなさすぎると、ゆい子は常々思っていた。

 

そんな彼女が、入学から一年半、高校生活の半分も過ぎたこのタイミングで大変身を遂げて来たのだから、周りが注目しないはずがない。

 

長かった黒髪はセミロングの茶髪となり、ゆるく巻かれたその髪をハーフアップにしている。メガネは相変わらず掛けているが、スカートは十センチ近く短くなっている。

顔の地味さは変わらないものの、雰囲気は明らかに別人だ。

 

片岡と仲の良い同じく地味目な女子達は口々に、かわいい、と言い、本人も照れくさそうに笑っている。

 

「わあっ本当だ、ゆうみんかわいいー!」

 

ゆい子も思わず駆け寄っていた。周りにいる女子が一瞬たじろいだが、笑顔で話しかけると少しずつよそよそしさが抜けていく。

グループの違う子が急に会話に入ってきて、身構えてしまったのかもしれない、とゆい子は察した。

華と奈緒子は、そんなゆい子を引き止めるでもなく、元の位置で壁に寄り掛かって携帯をいじっている。

 

「もしかして、彼氏できたの?」

 

だって急すぎるんだもん、とゆい子が付け加えると、周りの女子達も興味津々の様子で片岡に詰め寄った。

片岡は少し考える様にしてから、ふふっと微笑んで「ひみつ」とだけ答えた。

 

「えー怪しいー」

 

散々口を割るように仕向けたが、片岡の口は石のように固かった。

 

「髪型もかわいいね。私もお揃いにしよっかなー」

 

鼻歌混じりにゆい子が髪を結ぶ素振りをすると、その場に居合わせた女子達がはっと息を飲んだ。

 

「ゆい子ちゃん、おなか…」

 

一番近くにいた女子が、触れていいのか分からないといった様子で恐る恐るゆい子に囁く。

腕を上げたことで、夏用の短いセーラー服の裾から、ゆい子のおへそ辺りが顕になっていた。

 

「あ、わ、またやっちゃった!」

 

恥ずかしいーと言ってお腹を隠すと、ようやく周りの女子達が和やかに笑った。そして、片岡は驚きつつも率直に質問する。

 

「立花さんってキャミとか着ないの?」

 

「あ、いつもは着てるんだよー。でも、朝考え事してたりするとたまに忘れちゃう時ない?」

 

ないよー、と女子達が再び笑い声を上げると、近くにいる男子達がチラチラと視線を送る。

 

「ゆい子、そろそろ先生来んじゃね」

 

不機嫌そうな華に少し離れたところから促され、黒板の真上に掛けられた時計を見ると、もうすぐ授業が始まる時間だった。

 

「あ、ほんとだ」

 

華に連れられてゆい子は窓際の席に向かう。

他の女子達は、上の階に向かおうとする片岡を名残惜しそうに囲っていた。

 

席に着くなり、華は小馬鹿にするように言い放った。

 

「ねーさっきの本気?あんなガリ勉ブスに彼氏なんか出来ないっしょ」

 

ゆい子の一つ前の席で華は、足を組んで涼しい顔をして携帯をいじっている。

華には分からないだろうが、今の声はきっと後ろまで届いている。

 

「…そう?」

 

華に気付かれないようにそっと後ろを確認すると、片岡はいそいそと空き教室に向かい、残された女子達は華のことをチラチラ見つつ仲間内で視線を交わし合いながら、それぞれ自席に向かっていた。

 

「さっきの聞いた?」

「片岡ちゃん、気にすることないよ」

「前田さんのが性格ブスじゃん」

「ゆい子ちゃんは良い子なのに」

「ねー、思った。なんであそこ友達なんだろう」

 

きっと後でそんな会話が繰り広げられるに違いない。そう、ゆい子は想像した。

そして、華に向かって、ゆうみんいい子じゃん、と言うと大きなため息が返ってきた。

 

「あのさ、椿とか片岡とか、見境なさすぎなんだよ、ゆい子は」

 

「なんで?椿ちゃんは親友だもん。あ、さっき言ってた『あんなの』って…もしかして、椿ちゃんのこと?」

 

椿の去り際に華が口にした言葉を引き合いに出す。

 

「他に誰がいんの。てか親友!?嘘でしょ!」

 

華はまたバカにしたように笑った。

 

「…ダメなの?」

 

「え、本気で言ってる?」

 

華はゆい子の顔をじっと見つめた後、諦めたように、なんか椿って感じ悪くね、と付け加えた。

椿のことをそう思う人もいるというのは、実際にゆい子も推測していたことだった。

 

「んー、まあ…椿ちゃん、女子と話すのちょっと苦手みたいだしね」

 

「は?それって、男だったら良いってこと?」

 

「そういうわけじゃないよ。あ、でも…男子は話しかけてくれるからまだ話せるみたいなこと、前に言ってた気がする」

 

「やっぱそういうことじゃん。話しかけられ待ちとかただの自慢でしょ。やっぱ、ああいう清楚系が一番腹黒なんだよ、実際」

 

華は色々と自分の中で納得した後、「ねー、奈緒子聞いてー」と右に二つ離れた席に向かって大きな声で話しかけ始めた。

 

間に挟まれた席の男子が気まずそうにしていたが、ゆい子はもう華のそれを止めることはしなかった。

右手で頬杖を付きながら窓の外をぼんやり眺める。

木の上で雀が二羽、追いかけっこをするように飛んでは止まりを繰り返している。

今日はのどかでとてもいい天気だ。

 

声が大きいことは決して悪いことではないとゆい子は思う。自分には真似できないことだから。

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