第17話

 アイビーは離宮の部屋で一人、水を張った木桶と向き合っていた。

 手をかざしてもこれといった変化はなく、水面は凪いだままロウソクのか細い光を反射させている。深呼吸をして、今度は人差し指を伸ばして左右に振ってみる。すると水面はアイビーの指に引かれたように、ゆら、ゆら、と小さく波を起こした。

 くっと糸を持ち上げるように指を上に弾くと、魚もいないのにしずくが跳ねる。両手をくるくると動かせば、竜巻によく似た渦を巻きながら水が二本上がり、空中でよりあわさって一本の細い水柱が出来上がった。

「……幻獣……」

 自分は普通の、なんの変哲もない、少し記憶を失っているだけの人間だと思いたかった。

 けれど。

「『ヘデラ』として作られた幻獣、かあ……」

 体力ではなく、気分的に疲れている。アイビーは木桶から放れ、力なくベッドに倒れ込んだ。豪奢で感触もふかふかとした離宮のベッドはいまだに慣れない。

 王宮から離宮に戻ってきたのは、夜の帳が下りきった頃だ。トクスが気にかけてくれているのは分かっていたが、少し一人にさせてほしいと頼んでから、ずっと部屋に閉じこもっている。

 軽いノックの音が聞こえた。はっと顔を上げると、「大丈夫ですか?」と心配げな声が投げかけられた。トクスだ。

「部屋に入っても?」

「ええ、大丈夫」

 トクスはしばらく迷ったらしくなかなか扉を開けなかったが、たっぷり一分ほど待った頃に顔を見せた。すり傷の残る頬が痛々しいが、それ以外にこれといった怪我はないと言っていた。

「水……?」と彼はベッドの前に置かれた木桶を見て首を傾げている。

「ちょっと試したいことがあったから、ダビーさんに用意してもらったの」

 アイビーは木桶まで歩み寄り、先ほどと同じ仕草をしてみせる。一通りやり終えると、トクスは驚嘆と納得の眼差しをこちらに向けていた。

「やはり庭園での水は、あなたが操っていたんですね」

「あの時、自分がどうやってたのか、はっきりと覚えてるわけじゃないの。興奮してたんだと思う。だから本当に私がやったって確信が持てなくて……今は分かってるけど」

「……兄上は幻獣だと言っていましたが、本当なのでしょうか。俺と同じように幻操師だという可能性は」

「でもトクスの腕にある契約印みたいなもの、あたしの体のどこにもないのよ」

 あったとしたら、ユノたち孤児院のみんなが気づいてこれはなにかと聞いてきたはずだし、トクスに保護されてからはダビーに世話をされていたが、その際にも特に聞かれた記憶はない。

 それに、とアイビーは手首をトクスに差し出した。彼は首をひねっていたが、触れるよう促すと、断りを入れてからアイビーの手首をそっと握ってくる。しばらくトクスは指先に神経を集中させて黙り込んでいたが、次第に目が伏せられていく。

「脈拍が……感じられない」

「ダビーさんと似たようなこと言ってるわね」

 離宮に戻ってすぐ、アイビーは「心臓の音がするか確かめてほしい」とダビーに頼んだ。彼女は訝しげにアイビーの手首を取り、続いて首に手を当て、最後に胸に耳を押し当てて驚いていたのだ。

 鼓動が感じられませんわ、と。

「でもあたしはこうして動いてるし、話も出来てる。だから多分、あたしの胸にあるのは心臓じゃなくて……」

「アイビー」

 先を言わせまいとするかのように、トクスの人差指がアイビーの唇に押し当てられる。炎を出す側の手だからだろうか、焼けるように熱いのに、不思議とずっと触れていたいとも思える、優しい手つきだった。

 言葉を飲み込んだアイビーの頬が、彼の手によって左右から挟み込まれる。トクスはアイビーと同じ目線になるまで背を屈め、口元には笑みを、けれど瞳は真摯にもう一度「アイビー」と呼びかけてくれた。

「俺もまだ理解が追いついていませんし、あなたが混乱するのも無理はない。信じられない気持ちも分かっているつもりです。ですがこれだけは言わせてください。庭園でも言ったように、アイビーはアイビーだ。人間だろうが幻獣だろうが、その事実は変わらない。誰にも変えられない。あなたという存在は、世界に一つしかないんです」

「トクス……」

「簡単に受け入れるのは難しいでしょう。だから今すぐ、無理にでも思い込めとは言いませんし、言えません」

 じわりと視界が滲み、あっと思う間もなく涙が一粒こぼれ落ちた。トクスの手を濡らしてしまったが、彼はそれでもアイビーの頬を包み込んだままだった。アイビーはトクスの右手に己のそれを重ね、委ねるように少しだけ頭を傾がせてから目を閉じる。

「……トクスの手、温かいわ。言葉だってそう。極力あたしが傷つかないようにしてくれてるって分かるから」

「買いかぶり過ぎですよ」

 するりとトクスの右手がアイビーの頬を優しく離れようとする。なんだか熱を逃がしたくなくて、その感情がなにからもたらされるものか分からないまま、アイビーは行かせまいと咄嗟に彼の手首をきゅっと引き止めた。

 とく、とく、とかすかに、けれど確かな音と感触がアイビーの指先に伝わってくる。トクスが生きている証、そしてアイビーには備わっていない命の音。

「これと同じものが、あたしにもあれば良かった」

「…………」

「やっぱり自分が幻獣だったなんて、すんなり受け入れるのは無理だわ。言ってわよね、幻獣を作る材料に人が使われてたって。あたしを作る上で、シャガは誰を犠牲にしたの?」

「……俺には分かりかねます。ただ……」

 トクスは躊躇うように口を閉ざし、言葉を継ぐ前に首を横に振った。アイビーの心境を考え、推測でものを言うべきではないと思ったのかも知れない。

 ぽろ、ぽろぽろ、と涙があふれて止まらない。幻獣でも涙は出るのだとぼんやり感じていると、頬を包んでいた温度が頭の上に移動する。トクスの左手がアイビーの頭を優しく撫でていた。

「俺以外に誰も見ていません。だから好きなだけ泣くといい」

「……六年前と同じね」

「あの時は右手でしたよ」

 些細な違いをわざわざ指摘する気真面目さがなんだかおかしくて、アイビーの唇に笑みが戻る。

 炎を宿していない手は、それでも他の人よりいくらか温度が高いのかも知れない。頭頂部から伝わる安心感は、少しずつアイビーの動揺を鎮めていった。

「あたしは、あたし。『アイビー』なのは変わらない――ありがとうトクス。きっともう大丈夫」

「本当ですか? 無理をしていませんか」

 深緑色の瞳で覗き込みながら、トクスの手はアイビーの頬に戻ってくる。ガラスに触れているのかと思うほど慎重に、彼の指先は涕涙ているいの軌跡を拭っていった。

「無理をしていないかって言われたら、ちょっとしてるけど……でもトクスが『アイビーだ』って言ってくれなかったら、あたしは今頃どうなっていたか分からない。操ってた水にそのまま飲みこまれて、溶けて消えてたかもしれないもの。あたしが今、アイビーとして立っていられるのはあなたのおかげだわ」

「お役に立ててなによりです」

 消えてなくならなくて良かった、とトクスは安堵したような声音で、優しくアイビーの肩を引き寄せた。アイビーの形がそこにあると確かめるような抱きしめ方だった。おずおずと彼の背に手を回し、感謝が少しでも伝わればと何度もトクスの胸元で礼を言う。頭上からはなをすするような音が聞こえたから、もしかすると彼も泣いていたのかも知れない。アイビーを抱き寄せたのも、泣き顔を見られたくなかったからだろうか。

 ひとまず座りましょうと促された頃には、もう二人の顔に涙はなく、春の日なたのような晴れやかさが広がっていた。そのことにどちらからともなく微笑みあい、アイビーとトクスは机を挟んで向き合うように腰かける。

 落ち着いた今、彼からこちらに聞きたいことは山ほどあるだろうが、アイビーだってそうだ。普段なら彼の背後に控えているはずの存在が、今はいない。

「ナシラさんは無事なの?」

「ご心配なく。一命は取り留めました」

 王都に向かっていた最中のナシラは、シャガが言っていた通り潰されていたという。ドラゴンに踏みつけられたのだろう、とは『聖女』の言だ。

 道の真ん中で馬とともに倒れて微動だにしない彼を見つけたのも、他ならぬ聖女だった。王宮でトクスと対面した彼女の後ろには眩いほど白い天馬が控え、その背中にナシラがぐったりと乗せられていた。

「まだ腕や足を骨折したままですが、あと二時間もすればどうにかなるでしょう。今は別室で寝かしてあります」

「えっ、そんなに早く治るものなの?」

「ナシラを診たのはヘデラですからね」

 確か聖女は〝どんな傷も病も瞬時に癒す人〟だと言われていた。

「羽が生えた人は? えーっと……」

「幻操師ですか? 彼にも治療を受けてもらいましたよ。ただ力を使ってひどく疲れているようでしたので休ませています。朝には回復しているでしょう。問題は……」

「……シャガは今、どこに?」

「地下牢です」とトクスは階下を指さした。

「治療は施しましたが、意識が戻るのはまだしばらく先だとヘデラが」

「生きているのが不思議ですって言われていたものね」

「本来ならば十分な環境下で治療を受けさせるべきなのでしょうが……兄上は王太子であると同時に罪人でもある。ひとまず一番広い牢を用意しましたが。面会しますか?」

「問い質したいことはあるけど、まだ目覚めてないんでしょう? 今はいいわ」

 他に聞きたいことは、と聞かれ、アイビーはすぐさま「本物だったの?」と問いかけた。

「ドラゴンがどこかへ行ったあとに来たのは、本当に聖女だったの?」

 アイビーは聖女に会ったことがないし、本人かどうかずっと訝しんでいたのだ。トクスは小さくうなずいた。

「治療中に少し話をしましたが、間違いなくヘデラでした」

「でも死んだはずじゃないの? 火葬されたって……」

「その辺りの事情については、朝になったら改めて話すと。その頃にはナシラも回復しているでしょうし、俺も追及はしませんでした」

 くあ、とトクスがあくびをする。離宮に来てから、彼は十分に休んでいないのではないだろうか。

「炎を出し続けると疲れるんでしょう。ちゃんと寝たの?」

「施しも受けましたし、仮眠もとりました。大丈夫です」

 トクスが炎を出し続けていた理由の一端は間違いなくアイビーだ。膝の上で力強く拳を握り、アイビーは目を伏せる。

「……ごめんなさい。逃げていなくて」

「驚きましたよ。もういないだろうと思っていた姿が、目の前にあったんですから」

 彼の顔から笑みが消え、眉間に皺が生まれる。普段は穏やかな目つきが鋭くなり、いら立たしげに腕を組む。初めて見る、怒りの表情だった。

「あの場にいたら危ないと分かっていたはずでしょう。なぜ留まったんです?」

「トクスが心配だったの! あたしに出来ることはないって分かってたけど、それでもなにか助けられないかって……」

「あまり言いたくはありませんが、あの時のアイビーは俺のような戦う者にとって足手まといになり得ます。自覚していてほしかった」

 アイビーは目を伏せたままだったが、叱責は正面から受け止めるべきだと考え直し、トクスの目を真っ直ぐに見つめ直した。彼の瞳はしばらく悲憤に揺れていたが、ふっと柔らかく息を吐いた時、それは跡形もなく消えていた。

「厳しいことを言って申し訳ありません」

「トクスは正しいわ。あたしはなんの力も持たなかったもの。もし自分がトクスの立場だったら、もっと怒ってると思う」

「ナシラが聞いていたら『殿下は優しすぎます』とでも言われてしまいそうです」

 いいですか、とトクスが真摯にアイビーを見つめてくる。アイビーは背筋を伸ばし、無言で続きを待った。

「〝あの時の〟と言ったように、あなたはもう、なんの力も持たないアイビーではない。事実、庭園ではあなたに助けられた」

「あたしはトクスになにもしてないわ。自分の身を守るのに精いっぱいで」

「ドラゴンの動きを止めてくれたでしょう? 色々と驚くばかりで、その好機を逃してしまいましたが。あれは俺の失態です。俺が動けていれば、ドラゴンを逃がしはしなかったのに」

「そのドラゴンなんだけど……シャガが『スペネ』って呼んでいなかった?」

 嫌な予感が胸にわだかまる。トクスもアイビーと同じ可能性を考えているのだろう。彼は渋面のまま、もう一度あくびをした。

「……すみません。やはり疲れがまだ……」

「朝になったらヘデラから話を聞くんでしょう。そんな状態で聞けると思えないけど」

「ええ。なので」

 トクスはふらふらと立ち上がる。てっきり「部屋に戻って寝てきます」と言うのかと思っていたら、彼が倒れ込んだのはアイビーの部屋のベッドだった。

「ちょ、ちょっと!」

「すみません……自分の部屋まで戻るのも億劫、で……」

 着の身着のまま、トクスはうつ伏せで規則正しい寝息をたて始めた。よほど疲れていたらしい。このままの体勢では苦しいだろうと、アイビーはいそいそと彼を仰向けにさせた。もしかすると今日だけでなく、ここ数日まともに眠っていなかったのかも知れない。少し動かしただけでは目覚めないほど、彼の眠りは深かった。

 なんだか可愛く思えて、アイビーは小さく笑いをこぼした。同時に「なんの力も持たないアイビーではない」と言われた嬉しさが、じわじわと胸を温め始める。

 ――でも分からないことが、まだある。

 アイビーはそばにあった燭台に目を向けた。ロウソクがほのかな明かりを灯している。小さな火に手をかざしてみたが、特に変化はない。

 木桶にしたのと同じように、次は人差し指を左右に振ってみる。次は両手、と順に一通り試して、アイビーは唇を引き結んだ。

 どういうわけか、水は操れるのに、炎はまったく操れないのだ。どれだけ手を動かしてみても、一向に変化が見られない。

 ――どういうことなの?

 幻獣だと言われたが、本当に「ヘデラ」としての幻獣なのか、それとも別の――。

 理由が分からないまま考え込んでいるうちに、窓の外はいつの間にか夜明けを迎えていた。

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