第16話

 ――今俺は、何を見ているんだ?

 ドラゴンの背後を取る位置にいたトクスは、目の前で起こっているそれについて、しばし理解が追いつかなかった。力を連続して使ったことによる疲弊すら忘れるほど驚いた。

 逃げていると思ったはずのアイビーが、まだ噴水から離れていなかった。ドラゴンが間近に迫っており、このままでは食われると背筋が凍る思いの中、急いで助けに向かおうとした刹那。

 ざばっと音を立てて、水が高く噴き上がったのだ。噴水の水面がそのまま盛り上がったかと思うと、次の瞬間には天を貫かんと伸びる柱が出来上がっていた。

 太陽の神と二人の女の像が、急流の中で白く煙っている。近くにいるアイビーは無事なのかと半ば呆然としながら目を移すと、彼女は右腕をゆるゆると上げ、殴りつけるような動きをする。それに呼応したかのように水がうねり、アイビーの拳と同じ形をとると、ドラゴンの顔を正面から打擲(ちょうちゃく)した。驚きに目を瞠るシャガをよそに、二度、三度と同様の動きを繰り返すと、ドラゴンは怯んだように後ずさっていく。

 アイビーはドラゴンに目をすえ、ゆっくりと近づいていく。ざばざばと絶え間なく形を変えながら循環する音を上げつつ、水もその後をついてくる。

 ――彼女が水を操っているのか?

 はっと我に返り、トクスは地面を蹴った。どういう状況であれ、アイビーが危険な位置にいることに変わりはない。ドラゴンの顔を打った水があちこちに飛散し、いたるところがぬかるんでいる。足を取られないようにと気を遣う時間すら惜しかった。

「アイビー!」

 トクスは右腕に炎をまといながら彼女に呼びかける。が、アイビーはこちらに一切反応を示さない。そばに控える水の音で聞こえていない可能性もあったし、繰り返し名前を呼んでも、結果は同じだ。ドラゴンとシャガだけに集中しているのか。

 再び彼女が右腕を上げる。今度は殴りつけるのではなく、なにかを掴もうとしているようだった。トクスは出来るだけ近づこうとするものの、ドラゴンの尾が地面を擦りながら左右に振れているせいで、思うように進めない。

「ヘ、ヘデラ? どうしたんだい、急に。え?」

 シャガが戸惑いの声を上げる。兄もアイビーの行動が理解できていないらしい。

「君が魔術師だっていうのは、そりゃあ知ってる。知ってるけど、でも、そんな風に力を使うなんて、聞いたことないよ。え?」

「魔術師……魔術師?」

 シャガの呟きに、トクスはふと思う。

 夕陽に染められたかのような朱い髪と、ガーネットによく似た緋色の瞳。二十年前に処刑された魔術師たち、フィアト家の者と同じ特徴を持つアイビー。彼女には離宮の図書室で「彼らの血を引いているとは思えない」と話したが、果たして本当にそうだったのだろうか。今になって分からなくなってくる。

 ――仮にアイビーにフィアトの血が流れているのだとしたら、今の状況に説明もつくし、神力が流れている理由にもなる、けれど。

 なぜだろう。直感が違うと告げている。

「うわあ!」とシャガの悲鳴が、思考の沼に陥りかけていたトクスを引き戻す。

 アイビーの手と同じ形をした水の柱が、シャガの体を掴んで持ち上げていた。ドラゴンがシャガを取り戻そうと口を開き、翼を激しく上下させる。かなりの暴風が直撃しているはずだが、アイビーに怯んだ様子はなく、今度は無言で左手を動かすと、水の柱が根元から割けてドラゴンに被さっていった。

 激流とも言えるほどの水だ。それを絶え間なく浴びながら、ドラゴンはシャガを救おうとしている。一方のシャガは首から下をすっぽりと水に包まれているため身動きが取れず、激しく動揺したように口をわななかせていた。

「トクスさま!」負傷した翼の幻操師がこちらに駆け寄ってくる。「そこにいては危険です!」

「あ、ああ」

 急いで彼に駆け寄ってドラゴンの背後から離れて間もなく、ビシビシと研ぎ澄まされた冷涼な音が耳に届いた。翼の幻操師の肩を支えてやりながら音がした方に目を向けると、

「凍っている……?」

 ドラゴンに水を浴びせていた柱が、激しい音をあげながら凍っていたのだ。やがてドラゴンの体も分厚い氷に覆われ、かなり強固らしく、足を踏もうとしても、飛膜を動かそうとしても敵わないとみえる。ドラゴンは金と赤が混じり合った瞳だけをぎょろぎょろと動かしていた。

 アイビーが静かに右腕を下ろすと、シャガもドラゴンのそばの地面に下ろされた。だが体は掴まれたままで、自分もいつ凍らされるか分からない恐怖からか、先ほどまでの威勢の良さはすっかり消えている。それでも口元に笑みが浮かんでいるのは、愛しい人の顔がそばにあるからか。

「ヘデラ……」

「教えなさい」

 音もなくシャガに歩み寄り、アイビーは無表情でずいっと顔を近づけた。

 今なら近づいても大丈夫だろうか。トクスは翼の幻操師を連れながら、慎重に彼女たちとの距離を詰めていく。

「お、教えるって、なにを?」

「あんたに聞きたいことは色々あるけど、まずはドラゴンの〈核〉の位置を」

「なっ……い、嫌だ! だって、教えて、ヘデラはどうするの? ドラゴンを倒してしまうの? 自分で? そんなのだめだ! だってドラゴンは、僕が倒すって決めてるんだから!」

「自分で作ったものを自分で倒す? おかしなことを言うのね」

 アイビーの言う通りだ。ヘデラを喪ってから、シャガの言葉はいつも歪でちぐはぐで首を傾げてしまう。トクスは二人の会話を聞き逃すまいと聴覚に神経を集中させた。

「いいから、早く。教えなさい。〈核〉はどこ?」

「ヘデ……」

「あたしはヘデラじゃないって何回言えばいいのかしら」

 ぱき、と微かな音を立ててシャガに触れていた水の一部が凍る。兄の口元から初めて笑みが消えた。

「答えないのならいいわ。手当たり次第に抉るしかない。常識的に考えて、このあたり?」

 枝分かれした水がするするとドラゴンの胸の位置まで伸びていく。

 アイビーは手を動かしていない。頭の中で考えるだけで水が動いているのだろうか。

「トクスさま、あの女性は何者なんですか……?」

「……分からなくなってきた」

 翼の幻操師の問いに、トクスは眉間に深い皺を刻みながら首を振った。

 ドラゴンをすっぽり包んでいた分厚い氷が、ぺきぺきと細かく割れながら胸だけを露出させる。キンと甲高い音を伴って、ドラゴンの胸に触れた瞬間に水の先端が凍った。西日に照らされて輝くそれは、神秘的ともいえるほど美しい。

 鱗のない胸に氷の先端が食い込み、躊躇いなくずぶずぶと埋まっていく。血があふれ出すとともにドラゴンが絶叫を上げたが、アイビーは一瞥をくれただけですぐに視線をシャガに戻した。

「ああ、これね。ドラゴンの〈核〉」

 胸の皮膚と肉が柔らかく切り開かれ、秘されていたそれが露わになる。スペネの地下室で見つけた〈核〉より遥かに大きいが、紫色の輝きは鈍く、どろりとしていて気味が悪い。氷柱ほど鋭い先端が〈核〉に触れたのか、ドラゴンが再度咆哮する。

 アイビーの斜め後ろから様子をうかがっていたトクスは、不意に過ぎった違和感に胸をさすった。

 ――あの〈核〉、よく似たものを見たことがあるような……。

「ヘデラ……ヘデラじゃない……?」

 黙り込んでいたシャガが口を開く。初めは悲しみに打ちのめされたのかと思わせるほど震える声だったのに、「そんなの……」と続けた言葉からは、あらゆる感情が抜け落ちているように思えた。

「そんなの――――――知ってるよ」

「……え?」と声を上げたのは、アイビーとトクス、二人がほぼ同時だった。

 ――知ってる? 兄上は、アイビーがヘデラではないという当たり前の事実を知っていた、と言ったのか、今?

 無表情だったアイビーの顔にも動揺が走る。

「君がヘデラじゃないなんて、そんなの、僕が誰よりも知ってるよ。だけど君はヘデラなんだ。いいや、違う。ヘデラじゃなきゃいけないんだ」

「な、に、言ってるの?」

「ヘデラは僕のものになってくれないんだ。でも僕は彼女と結ばれたいし、ずっと一緒にいたい。じゃあどうすればいいかなんて、一つしか思いつかないじゃないか」

「兄上……?」

 トクスは困惑しているアイビーの隣に並びつつ、シャガを見下ろして口を噤んだ。

 兄はあんなにも、野望にぎらつく目をしていただろうか?

「アイビーなんて名前、誰がつけたのか知らないけど。でも僕は認めない。君に用意していた名前は『ヘデラ』一つだけ。だって――」

「まさか……!」

 いち早く可能性に思い至ったのはトクスだった。もし自分の予想が当たっていたのなら、アイビーに聞かせるわけにはいかないと思った。すぐさまアイビーの耳を塞ごうと手を伸ばしたが、遅かった。


「君は『ヘデラ』として作られた幻獣なんだから!」


 がしゃん、と耳をつんざくけたたましい音が響く。ドラゴンを拘束していた氷と、〈核〉に触れていた氷柱が一度に崩壊したのだった。同時にシャガを包み込んでいた水もはじけ飛び、ドラゴンと兄は自由を取り戻してしまった。

 トクスは素早くアイビーの腕を引き、翼の幻操師に無理を言って羽ばたいてもらい、兄たちから離れた。アイビーはがくがくと膝を震わせたまま、呆然とトクスの腕に縋りついてくる。

 アイビーが拘束を解いたわけではなく、ドラゴン自身が氷を粉砕したようだ。それに驚き、彼女はシャガを解放してしまった。ドラゴンは喉を大きく反らし、怒りを発散させるかの如く鳴いた。飛膜の先で、退化した指先がびくびくと動く。

「さあスペネ。形勢逆転と行こうじゃないか」

「スペネ……?」

 それは側近の名だろうとトクスは眉を曇らせた。シャガは立ち上がって胸を張り、勝ち誇ったような笑みを浮かべてドラゴンの後ろ脚を愛おしそうに撫でている。スペネ、と呼びながら、兄の目はドラゴンを映していた。

 そんな馬鹿な、とトクスは兄の視線を追ってドラゴンを見やり、違和感を覚えた。

 片目は先ほど翼の幻操師が潰したはずだが、もう回復してしまったらしい。獰猛な光をたたえて狂おしく輝く瞳は、赤と金が混じり合っていたはずだ。けれど今のドラゴンの目に、赤色はどこにも見当たらない。

 全て金色に呑みこまれてしまったかのように。

「まずは僕を乗せるんだ、スペネ。ヘデラを迎えに、」

 シャガの台詞はふつっと途切れた。

 ひとしきり鳴いた後、ドラゴンが煩わしげにシャガを後ろ足で蹴り飛ばしたのだ。あれほど忠実に従っていたのに、突然態度を変えた。無防備だったシャガは為すすべもなく王宮の壁に激突する。ただでさえ脆くなっていた壁がぼろぼろと崩れ、ぐったりとうつ伏せに倒れた兄の腕や脚はおかしな方向に折れ曲がっていた。

「ト、トクス……」

 がちがちと奥歯を鳴らし、アイビーは真っ青な顔でこちらを見上げてくる。なにか声をかけてやるべきだと思うのに、それどころではないと頭の片隅で防衛本能が警鐘を鳴らす。翼の幻操師も「逃げるべきでは!」と訴えていた。

「アイビー。あなたは『アイビー』だ。それ以外のなにものでもない。大丈夫」

 気休めにしかならないだろうが、今は安い言葉で慰めるのが精一杯だ。

 グウ、とドラゴンが息を吸い込んだ。毒の息を吐くつもりかと身構えたトクスだが、口から放出されたのは予想外のものだった。

 炎の球だ。トクスが作り上げるものよりも遥かに大きく、熱量もすさまじい。太陽が落ちてきたのかと錯覚してしまうほどだ。ドラゴンは炎の球をこちらに向かって吐き出すが、狙いが逸れたのか、球はトクスたちの頭上を通り過ぎ、庭園の端に落下したようだった。

「炎は吐けないって……言ってたはずなのに……!」

 愕然と呟いたのはアイビーだった。兄のことだ、『ヘデラ』だと思い込んでいたアイビーに嘘をつくとは思えない。

「トクスさま、ここにいては我々の身が危険です!」

 翼の幻操師のもっともな訴えに、「しかしどこへ逃げろと言うのか」とトクスは咄嗟に視線を巡らせた。額に汗が浮かび、なのに全身はぞっと寒気すら感じている。五年前、ヒュドラと初めて戦った時と似た感覚だ。

 再びドラゴンが息を吸う。今度は球状ではなく、流れるような炎を息とともに吐き出してくる。狙いの先から逃げても、ドラゴンは首を動かして照準を反らし、執拗に追いかけてきた。ただでさえ力を使って疲弊しているうえ、負傷している翼の幻操師と、足元が覚束ないアイビーを連れて逃げ続けるのは、いくらトクスでも難しい。

「兄上はどうなっている!」

「シャガさまが意識を回復させた様子はありません!」

 気絶しているシャガも気になるが、今は自分たちの身を守るのが最優先だ。だが、どれだけ距離を開けてもドラゴンに諦める様子はない。それどころか少しずつ近づいて、捕食者の眼差しでこちらを睥睨している。

 再び炎の息が吐き出された。トクスの炎では太刀打ちできない。少しでも狙いから逸れようと、近くにあった豊穣の女神の噴水に身を隠す寸前、アイビーが立ち止まった。彼女が手のひらを上に向けると、穏やかだった水面がもこもこと盛り上がって水柱が生まれる。

 炎がトクスたちに襲い掛かる瞬間、アイビーは真っ向から水柱をぶつけた。爆発的に水蒸気が発生する中、水柱と炎は互角に競り合っている。彼女は歯を食いしばりながら、少しずつ炎を圧倒していく。ドラゴンは息を吐き続けているのだ。炎の勢いは次第に尻すぼみになっていく。

 隙を逃すまいとアイビーが一気に水をたたみかけ、やがて炎を完全に消し去り、ドラゴンの顔を正面から打った。ドラゴンは悲鳴を上げ、飛膜を激しく上下させたかと思うと次の瞬間には飛び上がり、長い尾を揺らしながら遠くへ去って行った。

「っ……」

「アイビー!」

 気が抜けたのか、水が元に戻った途端にアイビーが崩れ落ちた。どろどろに乱れた地面で顔を打つ寸前でトクスが体を支えると、彼女は限りなく弱い声で「ありがとう」と呟いた。

「ごめんなさい、すぐに自分で立てるようになるから……」

「無理はしない方がいい。それより」

 色々と聞きたいことがある、と言いかけて、そうしたいのはアイビーも同じだろうと言葉を飲み込んだ。

 シャガの叫びが真実なのだとしたら、アイビーは人間ではない。その事実を、彼女はきっと受け止めきれていない。受け止められるわけがない。

 ドラゴンが戻ってくる様子はない。トクスはアイビーと翼の幻操師を引き連れ、倒れ伏したままのシャガまで近づいた。全身を強く打ち付けたのだ、命を落としている可能性も十分にあったが、仰向けにしたシャガの胸は浅くゆっくりと上下している。ひとまず安堵したが、油断はできない。

「早急に治療を受けさせて、回復してもらわなければ。聞きたいことも聞けない」

「しかし、治癒系の」

「幻操師はいない、でしょう? 分かっていますとも」

「お医者さまがいる所まで運ぶの? あたしも手伝うわ」

「どこの骨がどれだけ折れているのか分からない以上、むやみに動かすのは危険です。医師を呼んでこなければ……」

「その必要はありません」

 不意にしっとりと落ち着いた声がトクスに届いた。荒れ果てた王宮にそぐわない、温かな春の風のような声。そして、とても懐かしい声。

 ――そんな、馬鹿な。

 そう思うのはこの短時間で何度目だろう。トクスの思いを代弁するかのように、先に声の主を見た翼の幻操師が「なぜあなたが、ここに」と瞠目している。

 なぜあなたがここに、に続く言葉は、なかなか出てこないようだった。トクスも信じられない心地のまま、思わず息を止めながら己の背後にいるであろう声の主を振り返った。

 身にまとうのは聖都でよく見かける、くるぶし丈のゆったりとした暗色のワンピースだ。紐で引き締められた腰は細くなよやかで、顔は黒いレースのベールに覆われていて判然としない。それでも身にまとう清貧で高潔な雰囲気から、彼女が何者なのか、トクスははっきりと分かった。

 彼女はトクスや翼の幻操師に向け、少しだけ左足を引いて上半身を折った。アイビーは突然現れた女性を前に、いまいち状況が掴めずにトクスと彼女を交互に見つめている。

「……ヘデラ」

 トクスがぽつりと名を呼ぶと、女性は「お久しぶりですね、トクスさま」と感情の読み取れない声を返す。その時、ようやく翼の幻操師が言葉の続きを見つけたらしい。

「あなたは……亡くなったはずでは」

 それに対し、女性はゆるく微笑んだだけで、なにも答えなかった。

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