第15話

 地上に出るやいなや、アイビーたちは鼓膜が破れそうなほどの大音声に襲われた。

 王宮の庭園に着陸したドラゴンが、天に向かって喉を震わせていた。「ひっ」と悲鳴を漏らしてアイビーが耳をふさぐと、同じように耳に手を当てていたトクスの背中に庇われる。彼の目はドラゴンと、その首筋から見え隠れする兄に向けられていた。

「ああ、やっぱりここにいたんだねヘデラ!」

 自身はドラゴンの鳴き声など苦ではないのか、シャガはアイビーを見つけた途端に破顔し、嬉々として地面に降りたった。盾を構えた兵士たちが続々とトクスを守るように集まり、ゆったりと歩いてくるシャガを取り押さえる機会をうかがっている。

「捜したんだよ。トクスにひどいことをされていないかい? そいつは僕と違って乱暴だからね、ほら、こっちにおいで。僕が君を守ってあげるから」

「っ…………!」

 幼子をあやすかのような猫なで声に背筋が震え、トクスの上着を掴む手に力がこもる。シャガはどこまでも本気で言っており、それが余計に恐ろしかった。

「止まってください、兄上。仮にもあなたは王太子です。手荒な真似はしたくありません」

「黙れ愚弟が。お前もヘデラを好いているのか? まさか。ろくに会ったこともないくせに恋心を寄せるなんて、身の程を知れ」

「聖女に対して、敬いこそすれ恋心など抱いていない。あなたは妄想の中で話を広げているだけだ」

 憎々しげに唇をゆがめるシャガを真っ向から見すえ、トクスは右腕に力を込めているようだ。炎はまだ灯っていないが、肌が赤みを帯びつつある。

「僕がヘデラをどれほど想っているか知っているだろう。そこを退け! 彼女は僕のものだ」

「この子は聖女ヘデラではなく、アイビーです」

「? だからヘデラじゃないか。なにを言っているんだ?」

「は……?」

「ああ。もういい」

 シャガが右手を軽く前に振る。周囲をぎょろぎょろと見回していたドラゴンが、瞳をアイビーたちに向ける。笑うように大きく口を開けて凶悪な牙を見せつけたかと思うと、翼を大きく前後に振った。立っていられないほどの暴風に、誰もが必死に踏ん張る。アイビーも身を屈めて風に耐えるが、少しずつ足の力が抜けていってしまう。

 ぎゃっと潰れるような声がした。トクスを守ろうとしていた兵士数人が、遠くに弾き飛ばされていた。ドラゴンが首を薙いだのだ。盾程度の薄い防御はなんの意味もなく、彼らは人形のように呆気なく空中に放り出される。

 その中には、地下室の入り口を見張っていたジーゲルト二等兵の姿もあった。

 アイビーは彼らの姿を目で追っていたが、「見てはいけない!」とトクスの腕が視界を遮った。だが、彼らがどうなったのか、想像は容易に出来る。目を大きく見開き、アイビーはガタガタと震える。

「邪魔なんだよ。兵も、お前も」

 僕はただ、ヘデラを愛しているだけなのに。

 シャガの言葉はどこか虚ろだ。それなのにトクスと同じ深緑色の瞳は猛禽類の如くぎらぎらと輝いて、生気と殺気がほとばしっている。

「トクス、お前の側近だってそうだ。分不相応にも僕を傷つけようとするだなんて」

「側近って、まさか」

「兄上」トクスの声色に強い怒りが滲む。「ナシラになにをしました? 彼は今、王宮に向かっているはずだ」

「潰させてもらっただけだよ。『殿下に危害は加えさせない』なんて、笑っちゃうよね? 僕だって『殿下』なのに」

 安心して、とシャガは場違いなほど穏やかに微笑んでいる。

「彼が王宮に行こうとしてたからこそ、お前や、お前に攫われたヘデラがここにいるはずだって分かったんだ。彼にはその恩があるからね、殺しはしてない」

 殺されていないと分かり、トクスはいくらか安堵したようだ。だが右腕は今にも燃え上がりそうなほど赤くなっているし、兵たちに指示を出す声も必死に冷静になろうとしているのが分かるほど強張っていた。

「ねえ、ヘデラ。僕のところに帰っておいで。逃げたことを怒ったりなんかしないから。前も言ったよね? 君が戻るべき場所は僕のそば。そこ以外にどこがあるというの?」

「それを、言うのなら!」

 恐怖で声が震える。それでもアイビーは必死に訴えた。

「あたしは『ヘデラ』じゃない、『アイビー』よ!」

 トクスから聞いた話では、シャガはヘデラに求婚するほど愛していた。けれどヒュドラ災害で彼女が死に、同時に彼の心も壊れてしまったのだろう。だから、髪と目の色が同じなだけのアイビーを見て、ヘデラだと思った――思い込むことにしたのでは、と感じた。

 少しでも自分の声が届けばと、アイビーは繰り返し己の名前を叫び続けた。

 ぴたりとシャガの足が止まる。わずかに残った兵士たちが整列してこちらを守ってくれているとはいえ、先ほどのようにドラゴンが彼らを排除すれば――。アイビーはシャガに攫われかけた時のことを思い出し、足がすくんだ。油断すれば座り込んでしまいそうだが、立っていられるのはトクスがそばにいてくれるからだ。

「あたしは、ヘデラなんかじゃ……」

 ない、と声を上げるのは何度目だろう。不意にシャガから一切の表情が抜け落ちたことに気づき、アイビーは言葉を飲み込んで眉間に皺を寄せた。

「やっぱり失敗だったのかな。だけどどうして? ヘデラの血が入ってるんだ。失敗するはずなんかないじゃないか、ねえ?」

「な、なにを言ってるの……」

「兄上、どういうことです。ヘデラの血が入っている? 一体誰に?」

「本人の血を使ったんだ。その結果、出来上がるのはヘデラ。そうだろう? じゃなきゃ何が出来上がるっていうんだ?」

 こちらの問いを聞いていないのか、あるいは聞いた上で話しているのか。

 分かるのは、シャガが確実に狂っているということだけだ。

「ヘデラ、どうして君は僕の言葉にうなずいてくれないんだい? ああ、そうだ。ヘデラ……彼女、僕がどれだけ誘っても王都に来てくれないんだ。じゃあどうすればいいと思ったんだっけ」

 乱暴に頭をかき、シャガはやがて長いため息をつく。

「まあいいや! ヘデラが僕のところに戻ってきてくれれば、それで何も問題ないんだから! さあトクス。彼女を返せ」

 シャガは両腕を広げ、ぞっとするほどの笑みを浮かべてアイビーを見つめている。アイビーはトクスの背中に半ば身を隠しながら、懸命に彼を睨み返した。

「返せ、返せと仰いますが、兄上。アイビーも、そして聖女ヘデラも、元より兄上の所有物ではありません。意思を持っているんです」

「何を言っているんだ。その子は、確実に、僕のものだよ」

 オオォ、とドラゴンが吠え、大きく身を乗り出した。トクスに噛みつこうとしているのだ。

 瞬きのうちにトクスの腕が炎に包まれ、轟々と音を立てて燃え上がる。あまりの熱さにアイビーをはじめ兵たちも驚きのあまり頭を伏せ、トクスは腕の炎を爆発的に巨大化させたかと思うと、自分たちを守る天蓋のように猛火を広げた。

 外から見れば半球状の炎がアイビーたちを囲っている。ドラゴンは炎に噛みついたが、その瞬間、じゅうっと舌が焼け焦げる。腹の奥底に響くような絶叫を聞くと同時に炎の天蓋が消え、アイビーはトクスに手を引かれて走り出した。城門へ向かって逃げたのでは、城下に被害が及ぶ。そう考えてか、彼は遮るものが少ない庭園の奥へと駆けている。

「兄上が王宮に来たことはすでに知れ渡っていることでしょう。すぐに各地に散っている隊が戻ってくるはずです。それまでなんとしても引き止めるか、あるいは兄上とドラゴンを捕らえねば」

「でもあんな大きな幻獣、どうやって引き止めるの! それに逃げたって、どんなに離れてもすぐに追いつかれるわ!」

「ナシラがいればあなたを託して、どこか安全な場所に逃げろと言うんですが」

 王宮に向かっていた彼を潰した、とシャガは言っていた。殺しはしていないとのことだが、潰したというからには確実に無傷ではないはずだ。

 ドラゴンはまだ爛れた舌を露わにして鳴いている。だが遠目からでも分かるほど、徐々に治っていくのが分かった。再び襲ってくるのも時間の問題だろう。なにより、奴は毒の息を吐くのだ。

「今そうしないのは、兄上がそばにいるからでしょう。ここで毒を吐けば、まず間違いなく兄上も巻き添えを食らう」

「毒を吐かせないためには、ドラゴンから離れすぎないように、でも近づきすぎてもいけないってこと……? 踏みつぶされたり、さっきみたいに吹き飛ばされたりするから」

 二人はドラゴンから距離を取っているが、他の兵たちはその場に留まり、剣と盾を携えて応戦している。

「〈核〉の位置を把握して、それさえ破壊できれば確実に無力化できるのですが……俺の力は〈核〉を瞬間的に破壊するということに限っていえば、向いていない」

「え、どうして?」

「炎で石は貫けないでしょう。こんなことなら剣を携えておくべきでした」

 じゃあどうすれば、と考え込みかけたところで、アイビーは気がついた。

「それなら取り除くのは! ヒュドラを討伐した時、〈核〉は壊しただけじゃなくて摘出もしたんでしょう?」

「鋭いですね、アイビー。ええ。それならば俺でも十分に可能です。実際、あの時も俺はヒュドラの〈核〉を破壊するのではなく、取り除く側だった」

 地面を強く踏む音に立ち止まると、ドラゴンが後ろ足を踏みならしていた。長い尾を持ち上げて振り回すと、王宮の右翼側の屋根が派手に損壊した。懸命に立ち向かっていた兵たちも、すでに何人かは力なく地面に横たわり、中には容赦なく踏みつぶされている者もいる。

 トクスは一つの噴水の脇で足を止めた。中央にある男の像は太陽の神だろうか。孤児院の礼拝堂にある像によく似ている。男の足元には麗しい裸体の女が二体侍(はべ)っており、肩にはそれぞれ甕を担いでいた。本来ならそこから水が流れ出ているのだろうが、今は一滴の雫すら窺えない。

 噴水を丸く囲う縁は大理石だろうか。腰ほどの高さのそれに一旦隠れるようアイビーに指示し、トクスは再び腕に炎を灯す。

「一人であれに立ち向かうつもり? 無茶よ!」

「ドラゴンほどの幻獣と真っ向から戦えるのは、現状で俺一人しかいません。これ以上、兵をみすみす死なせるわけにもいかない」

「あ、あたしにも、なにか出来ることは……囮なんだもの。逃げ回って、こっちに気を引いている隙をついて、とか」

「悪くない案ですが、アイビーの身が危険すぎます。あなたのご友人はドラゴンに噛まれたのでしょう。それと同じ光景を、俺は見たくない」

 大丈夫ですよ、とトクスは微笑んでいるが、アイビーを安心させるためでもあり、自分を奮い立たせるためでもあるのだろう。

「この辺りにはあまり遮るものがありませんが、北に向かって走れば身を隠すのに適した木立があります。俺がドラゴンと兄上を引きつけている間に、そこまで逃げてください」

「トクス!」

 説明するだけすると、彼は身を翻して駆け出していった。アイビーは慌ててトクスを呼び止めようとしたが、「兵を死なせるわけにはいかない」と言っていたのを引き止めてもいいものか悩み、その間に、噴水に近づかせないための時間稼ぎか、同時にアイビーをこちらに来させないためか、道を塞ぐように炎を放った。

 炎の壁はアイビーの身長より高く生え、触れれば火傷どころでは済まないと分かるほどの温度で燃えている。トクスは壁を何重にも作ったのか、ちらちらと炎の隙間から見えるのは、また別の炎だ。遠くにドラゴンの頭は見えているのに、彼の姿はうかがい知れない。

「トクス……!」

 彼はなんの防具も身に着けていなかった。炎を駆使する幻操師とはいえ、兵たちのように剣や盾も持っていない。ほぼ丸腰だ。

 ――隠れているだけで何もできないなんて、そんなの!

 悔しい。守られるだけで何の役にも立てず、ただ黙って後ろ姿を見送るしか出来ないのが。脅威から身を隠して、危険が及べば逃げる。無力なのだから仕方ない、これ以上ここに留まっていてはトクスの迷惑になると分かっているのに、動けない。動きたくない。

 丸腰なのは自分だって同じだ。戦う術を持たないぶん、足手まといにしかならないのも理解している。ナシラがこの場にいれば「さっさと逃げろと言われていたでしょうに!」と怒鳴られそうだ。

 それでも。

 ――なにかちょっとしたことでも、トクスの助けになれたらいいのに!

 ――だってあたしは、トクスみたいに……殿下みたいになりたいって、出会った時に感じたじゃない!

 オオォ、とドラゴンが吠える。はっとして顔を上げると、ドラゴンの顔の周りに炎が巻き付いていた。まるで獲物を縛り上げるヘビのようだ。鼻息で吹き飛ばそうとしているが、トクスが巧妙に操っているらしく、炎はうねうねと息をかいくぐる。

 彼は今、ドラゴンを引きつけると同時にシャガの相手もしているはずだ。

「シャガ一人なら、あたしでも何とかできないかしら……」

 どうだろう、と少しだけ考え、本当に出来るのかと不安が首をもたげた。確かシャガは腰に短剣を吊っていたはずだ。アイビーをヘデラと思い込んでいるのだし、それで直接攻撃してくることはないかも知れないが、無理に言うことを聞かせようと強硬手段に出ないとも言えない。

 次の瞬間、思わず耳を覆いたくなるほどの見にくい絶叫が轟いた。何ごとかと炎の向こうに目を向けると、ドラゴンの右目から勢いよく血が噴き出している。間欠泉のように噴き出たそれは、損壊した王宮を赤く染めていく。

「誰かが目を潰したの?」

 けれど、あんなに高い位置にどうやって。疑問はすぐに解消された。

 人間が空を飛んでいたのだ。鳥の翼が背中から生え、大きく羽ばたいてドラゴンを上空から攻撃している。

 ――ドラゴンは厄介でしょうが、殿下や他の幻操師を集めて戦えば……。

 トクスに保護されてすぐ、ナシラがそう言っていたのを思い出す。あれは幻獣ではなく、もしかして幻操師か。

 ドラゴンが王宮に現れたと聞いて、救援に来たに違いない。各地に散っていた隊が集結しつつあるようだ。

 その時、アイビーを守っていた炎が急激に弱まった。もうもうと燃えていたのに、一瞬で熾火おきびほどの大きさまで縮んでしまう。

 動揺している間にも、火は少しずつ弱まっていく。

 炎を出せば疲れる。彼は先ほどスペネの地下室でも炎の蝶を作っていたし、そこにいる間はずっと灯していた。噴水へと来させないために出現させた炎の壁も、アイビーは知らないが、五つあったのだ。それを維持しながら、ドラゴンと戦うためにまた別の炎を操る。

 きっと大変な疲労感に襲われているはずだ。トクスが優先すべきなのはドラゴンとシャガの確保であるし、きっとアイビーはもう逃げたものだと思っているから、噴水の前方にあった炎を消したのかも知れない。

 だとしたら、

 ――今の状況って、ものすごく危ないんじゃ。

 アイビーの予感は的中した。首を振り回していたドラゴンと、目が合った。

「な……アイビー、なんで、まだ!」

 逃げていないのか、と困惑するトクスの声が聞こえるより早く、ドラゴンが足を踏みだした。よく見ると首筋にシャガの姿もあり、「あんな炎の中にいたなんて! 早くヘデラを助けないと!」と青ざめた顔でドラゴンに命じている。

 真っ先にドラゴンを追ったのは、翼が生えた幻操師だ。矢のような速さで飛び、アイビーを助けようとしてくれる。だが、ドラゴンが右の飛膜を振るい、幻操師を横から叩きつけた。幻操師は吹き飛ばされながらも体勢を整えていたが、翼をひどく痛めたらしく、よろよろと力なく着陸する。

「ヘデラ!」

「ひっ……!」

 今さら遅いと分かっていながら、アイビーは逃げようと後ずさった。だが足が震えているのと、ドラゴンが走ってくるせいで地面が揺れ、思わずその場に座り込んでしまう。

 ドラゴンが大きく口を開けて首を下げる。咥えこんでそのまま連れ去ろうというのか。トクスの炎がドラゴンに伸ばされるが、距離が足りずに途中で消えてしまった。

「こ、来ないで!」

 ――迷惑をかけるくらいなら、早く逃げておけばよかった。

 後悔が脳裏をよぎり、ぐっと唇を噛む。

 自分にも何か出来たらと留まっていたせいで、トクスや、救援に来た幻操師を危険にさらしてしまったのだ。自分の判断がいかに甘く幼かったのか、いやというほど痛感した。

 ――だけど。

 アイビーは噴水の縁に手をつきながら立ち上がり、ドラゴンを鋭く睨みつけた。

 大人しく攫われてなどやらない。武器はなにも持っていないけれど、自分に出来るだけの力で抵抗してやる。

 頑強な意志を固めた時、自分の中で、何かがふつりと音を立てた気がした。

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