第13話
うわあ、とアイビーは馬上で感嘆の吐息を漏らした。アイビーを支えながら手綱を握るトクスが、背後でくすりと笑う気配がする。
「王都に来るのは初めてですか」
「ええ! こんなに広いなんて思ってなかったわ」
どこもかしこも初めて見るものだらけで、アイビーは頬を薄らと赤らめて胸を躍らせていた。
離宮から天馬に跨っておよそ一時間。アイビーたちは王都に入っていた。南を大河、北を小高い丘に挟まれているそうだが、王宮に近いというここからでは大河は見えない。丘の奥には峻険な山があり、雪がまだ残っているのか表面は白く覆われている。東西はそれぞれ別の町に道が繋がっているそうで、今は東から入ってきたところですとトクスが言う。
「途中で立派な門があったでしょう? あれが王都への入り口です。商人や貴族たちはあそこを通るのが決まりなんですが、今回は急いでいますし、俺は王子ですし、まあ通らなくても許されるはずです」
「そんな大雑把な理由でいいものなの?」
「仮に怒られたとしても『次は気をつける』と言えば済むことです」
そろそろと眼下に目を向けると、ちょうど市場だったらしく、多くの人々が行きかっていた。丸く開けた中心に噴水があり、放射状にのびた道に沿うようにして店が並んでいる。道もただの土ではなく、整備された石畳だ。天馬の存在に気づいた人は顔を上げ、笑顔で手を振って挨拶してきた。ここでは天馬を見かけるのは普通のことなのだろうか。
手を振り返してもいいものか戸惑っていると、アイビーより先にトクスが微笑みながら手を振る。まさか王子が騎乗しているとは思わなかったのか、何人かがぎょっと目を剥く様が少しだけ面白い。
「あ、なんだかいい匂いがした。あそこで売ってるのはお菓子? でも看板は花だわ」
「花弁を砂糖漬けにした菓子の店ですよ。王都名物です」
「花を砂糖に? 初めて聞いたわ! どんな味がするのかしら……。他にもいろいろあるのね」
あそこは何の店だ、こっちは何を売っているのかと好奇心旺盛に訊ねるアイビーに、トクスは面倒くさがる様子もなく、むしろ楽しそうに、一つ一つ返答してくれた。
「この辺りはお店ですが、少し足を伸ばすと住宅街があるんですよ」
「あそこの尖った屋根も普通の家なの? 他の建物に比べて二回りくらい大きいし、お金持ちの家とか」
「ああ、あれは礼拝堂です。聖都のものに比べれば劣りますが、内部の装飾やバラ窓は見事なものですよ」
想像しようとしたが、アイビーが見たことのある礼拝堂と言えば孤児院にあるものだけだ。装飾なんてほとんどない地味なものだし、ステンドグラスも素朴だ。王都にあるのだから、きっとお金もかかっていて豪華なのだろう。
「礼拝堂の近くにはナシラの家もありますよ。といっても、あいつは俺の側近兼護衛ですし、ほとんど王宮で過ごしていますが」
「そのナシラさん、すごく困ってたような気がするんだけど」
離宮を出る際、ナシラは馬車で行ってくれと顰め面で懇願していた。シャガが襲ってきた時にすぐに守れるからと。アイビーもその通りだと思ったのだが、トクスが「時間がかかるからいやだ」と首を振ったのだ。
先ほど通りかかった門の様子を思い出す。多くの人々や馬車、荷車が連なり、長い列を作り出していた。トクスの言う通り、馬車で戻っていたのでは検問で足止めを食らっていた可能性もある。とはいえトクスは本人の言う通り王子であるし、優先的に通してもらえるのではないかとも思えるが。
最終的にナシラが折れて、彼は今、道の起伏をものともしないトクスに追いつこうと必死に馬を駆っているところだろう。
「大丈夫でしょう。ナシラも深夜には着くはずです。それよりも、ほら」
見えてきましたよ、と彼が前方を指さす。
「あれが王宮――マグノーリエ宮殿です」
トクスが示した先を見て、アイビーは「うわあ」とまたしても声を漏らした。
まず目に入ったのは町と宮殿とを隔てる水堀だ。跳ね上げ式の橋を渡れば、次に堅牢そうな城壁が待ち構えている。城壁が武骨な石造りで灰色をしているのに対し、来客が必ず通る門は陽光を弾くほどに白く、王冠を戴いた君主や軍隊のレリーフが特徴的だった。
その上を通り過ぎたところで、トクスが天馬を着陸させた。彼の手を借りてアイビーも馬を降り、目の前にずんとたたずむ王宮に息をのむ。
「……普段はここに住んでる、のよね……?」
そうですよ、とトクスがうなずく。
訪れたものを圧倒するかのような、見事な宮殿だ。柱の乳白色と外壁の銀朱色の調和が美しく、長方形の窓がずらりと並び、窓と窓の間の壁からは歴代の王を模った胸像がせり出している。
屋根は鮮やかな露草色をしており、縁を彩るのは豪奢な金。足元は純白と漆黒の石が複雑な模様を描き、これは鳥であれは鹿だろうか、などと見る者の目を楽しませる。
もっともアイビーにそんな余裕はなかったが。
――当然と言えば当然なんだけど、孤児院とは比べ物にならないくらい豪華だわ……。壁から人の像が生えてるのはちょっとどうかと思うけど、ここで暮らしてる人には当然の光景なのかしら……。
「アイビー?」
「へっ」無意識に口を開けたまま固まっていたらしい。トクスに呼びかけられて我に返り、アイビーは取り繕うように、意味もなくスカートの裾を整えた。「ご、ごめんなさい。初めて見るものばかりで、ちょっと驚いて」
「案内しましょうか、と言いたいところですが、今はそれどころではありませんからね。残念です」
「そういえば王宮はドラゴンに壊されたって言ってなかった? 全然そんな風には見えないけれど」
「こちら側からは分かりにくいですが、庭園側から見ると悲惨なものですよ」
トクスに先導されながら真っ直ぐに歩いていく。長方形の窓や扉が多い中、一か所だけ入り口がアーチ状になっており、そこだけ直接、庭園に続いているらしい。
「庭園は一般市民も自由に鑑賞できるようになっているんです。今はドラゴンや兄上がいつ戻ってくるとも分かりませんし、ひどい有様ですから、立ち入り禁止にしていますけどね」
「だからこんなに静かなの? なんとなく、王子が戻ってきたなら、もっと大勢の人が迎えるものかと思ってたんだけど……」
「王宮にいた者の大半は、俺たちが先ほどまでいた離宮などに移っていますから。今ここに残っているのは、王宮を守ったり瓦礫を片付けたりする兵と、修復を進める職人くらいでしょうか」
長いアーチをくぐり抜けると、一気に視界が開けて光が目に飛び込んでくる。
一般市民に開放されているという庭園は、トクスが言っていた通り、目も当てられないほどひどい有様だった。ドラゴンの翼が生み出した風によって植物はへし折られ、力なくくたりと地面に倒れ込んでいる。そんな光景がどこまでも続いているのだ。庭園の各所には噴水も見受けられるが、どれも水が出ていない。
ふと違和感を覚えて、アイビーは首を傾げた。城壁がどこにも見当たらないのだ。あんなに武骨なものがあれば分かるはずなのに、と不思議な気分になる。ドラゴンによって破壊されたのか、あるいは庭の景観を保つために見えないようになっているだけなのか。
――それか、ここから城壁が見えないくらい遠くにある、とか?
だとしたらものすごい広さである。リーニャのような小さな村がすっぽりと収まってしまいそうだ。
「さて、時間も惜しいですし行きましょうか」
瓦礫が散らばっていたり地面が隆起したりして危ないからと、トクスが手を引いてくれる。アイビーは彼に導かれながら王宮を見上げ、ぎょっとした。
庭園に気が向いていて把握するのが遅れたが、裏側から見た王宮、特に左翼側はほとんど原形を留めていなかった。トクスが「悲惨なもの」と言っていたのは嘘ではなかった。右翼側も無傷とは言えず、外壁のあちこちが剥がれ、または瓦礫の直撃を受けて窓が割れていたりしている。
「確かにこれは住めそうにないわね……トクスの部屋は無事だったの?」
「残念ながら」とトクスは肩をすくめて苦笑した。「もしも騒ぎを無視して部屋にこもっていたとしたら、今ごろ俺は神のもとに召されていたでしょうね」
トクスは近くを通りかかった兵を呼び止め、まずは王宮の修復の進捗について聞いていた。新米と思しき兵は急に王族に話しかけられ、初めこそ驚いていたものの澱みなくはきはきと答える。
「トクスさまは離宮に身を移しておられたのでは」
「ただ閉じこもって事態の進展を待つのは性に合わないので。色々と調べますが問題ないですね?」
「いえ、トクスさまのお手を煩わせるわけには……!」
上官に話してみないと、という思いと、王族の申し出を断ってもいいものかと悩む気持ちとがせめぎ合っているのか、兵はしばらくあたふたしていたが、トクスは改めて「調べますが、問題ないですね」と、今度は結論付けるように言い、アイビーの手を引きながら彼の隣をすり抜けた。
「い、いいの? 勝手に……」
「勝手も何も、王宮は王族の住まいですからね」
それもそうなのだが。時々思うが、トクスは柔和な見た目に反して時々強引なところがあるらしい。振り返ると、兵が慌ててこちらについてくるところだった。
「トクスさまやお連れの女性がお怪我をされては危険です! ……そういえば、こちらの女性はどなたなのでしょう」
「俺が招いた客人です。今回の一連の騒動にも無関係ではない。彼女や俺の身は自分で守りますから安心してください。しかし、そうですね。今からスペネが使っていた地下室を調べるつもりなのですが、見張りを頼んでも?」
「シャガさまの側近の地下室、ですか?」
兵はそんな部屋の存在を知らなかったらしい。困惑気味だったものの、やがて胸を張ってうなずいた。
スペネが幻獣を作っていたとみられる地下室は、瓦礫の山と化した左翼側の下にあるという。トクスが来るよりも先に調査の手は入っていたようで、地下へと続く入り口付近は片付けられていた。
位置的に考えて、ここは王宮の端も端だ。もともとは調度品を収めておく保管庫があった場所だという。その床の一部が外れるようになっており、兵が恐る恐る床と一体になっていた地下室への扉を開けると、薄暗い道と階段が姿を現した。階段には浅くない量の埃が積もっていたようで、複数人の足跡がいくつもくっきりと残されている。
「どうしてこんなところに地下室なんか……」と呟いたのは兵だ。
「もともとは保管庫の一部だったんですよ。とはいえ貴重品が収めてあったわけではありませんでしたし、スペネが兄上の側近に就いた際、いつの間にかスペネの私室と化していた。十中八九、兄上が勝手に許可して改造させたんでしょうが」
兵が知らなかった通り、保管庫の地下の存在はほとんど秘匿されている。
「他国との戦争や自国の内乱が起きた際、王宮が襲撃された場合はここの地下室にある脱出口を使うんです」
「あまり色んな人が『地下室があって、そこから脱出できる』って知ってたら、情報が漏れてしまうかもしれないから秘密にされてたってこと?」
「理解が早くて助かります」
行きましょうか、とトクスが階段を下りていく。アイビーも後ろに続いた時、「あの」と兵が声を上げた。
「私はここで見張りをしていればよろしいのでしょうか」
「ええ、お願いします。あなた……えーっと、名前は」
「ジーゲルトと申します」
「誰か来たり、なにか異変や違和感があれば、すぐに呼んでください。頼みましたよ、ジーゲルト二等兵」
は、とジーゲルトは右手を上げて敬礼をし、きゅっと表情を引き締めていた。アイビーも軽く頭を下げ、足を滑らせないようにしながら階段を下りる。
下っていくにつれ、明るさがどんどん減っていく。二十段ほど下ったところで、トクスがゆっくりと立ち止まった。階段はひとまずここで終わりらしく、右側に道がひっそりと伸びている。
「ねえ、松明とか燭台とか、なにも持ってこなかったけど大丈夫なの? すごく暗いけど」
「問題ありませんよ」
薄暗くてあまり見えないが、トクスは笑ったようだった。彼はなにやら右の袖をまくり、手のひらを上に向けた。
「――――あ」
同じ仕草を、いつかも見た。
もしかして、とアイビーが彼の手を凝視して間もなく、ぼうっと彼の手のひらが炎に包まれた。幻想的な炎は確かな熱を持ち、アイビーの頬をやんわりと温める。触れてみたいと思うけれど、普通の人が触れば火傷する、と言われたのを思い出した。
――幻獣イフリートから授かった、炎の術。
顔を上げてトクスを見ると、彼はどこか嬉しそうにこちらを見つめていた。
「こうしてお見せするのは久しぶりですね。初めて会った時以来でしょうか」
「そう、かも。あの時と変わらない炎だわ」
トクスの手のひらで揺らめいていた炎は、やがて珠のように丸まり、むくむくと形を変えていく。薄く繊細な翅が四枚出来上がり、ひらひらと飛び立った。炎の蝶だ。
「ここからはあれを明かりに進みましょう。足元が滑りやすいですから気をつけて」
「で、でも、あまり長い間炎を出していたら疲れるって……」
「お気遣いありがとうございます。大丈夫ですよ。あの時に比べたら体力もつきましたし、力の加減も学びました。蝶一匹くらいなら疲れなどほとんどない」
かつかつ、こつこつ、と音が反響する細い道を、蝶の明るさを頼りに進んでいく。ほどなくして一枚の扉が現れ、手前に引くと、開けた空間が広がっていた。
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