第9話

 トクスに支えられながら天馬ペガサスに跨り、離宮から飛び立って三時間ほど。アイビーはリーニャに降りたった。

 ドラゴンの毒で覆われていた一帯は、今はきれいさっぱり晴れていた。異臭もなく、これといった異変が見当たらない。

 人々の声が聞こえてこない以外は。

 アイビーは村の中央に敷かれた道をトクスと走り、丘の上にある孤児院へ急いだ。その後ろからはナシラも追ってくる。誰も言葉を交わすことなく、無我夢中で走り続けた。

 坂道を進むにつれ、徐々にざわめきが聞こえてきた。みんなは大丈夫だろうか。医師団はとっくに到着しているはずで、治療も受けていることだろう。

 やがて門が見えてくる。長方形の灰色がかった石が対になって建つだけの簡素な門だ。普段は閉じられているが、今は全開になっている。

 お願いだから、誰も死なないでいて。アイビーは力を振り絞り、倒れ込むようにして孤児院の庭に踏み込んだ。

「――な」

 初めに言葉を呑んだのは誰だっただろう。

 広くない孤児院の庭は様変わりしていた。

 まず人が多い。恐らく孤児院で暮らす子どもや先生だけでなく、村の住人たちも集まっているのだろう。ヒュドラ災害時に比べれば少なく、人波をかき分けなければ前に進めない、というほどでもないが、普段は子どもたちが走り回るそこは老若男女でひしめき合っていた。

 そこまではまだ予想範囲内だ。仰天したのはその先だ。

 苦しんでいたり、倒れている者が誰もいない。ケガ人もいないし、むしろ派遣された医師団が「これはどういうことか」と頭を抱えている。

「報告を聞いた時は冗談かと半信半疑だったんですが……」

「本当だった、みたいね……」

 ――リーニャの人々は、全員元気だ。

 兵からもたらされた報告に、アイビーたちはそんなバカなと目を剥いた。

 リーニャがドラゴンの毒に侵されたのを、アイビーは確かにこの目で見たのだ。シャガだって三日三晩苦しむと高笑いしていたではないか。孤児院のみんなが無事ならと嬉しい反面、冗談ではないかと疑りも腹に渦巻いていた。

 だが、兵の報告に嘘はなかった。庭に集まった人々の中に、傷を負ったものは誰一人いない。

「アイビー? アイビーじゃないの!」

 涙交じりの声に呼ばれて振り返ると、ふっくらとした体に勢いよく抱きしめられた。小じわを刻んだ顔を濡らして泣き喚いているのは、孤児院の院長だった。

「どこを探してもいないし、ドラゴンにさらわれたとか聞くし、もう心配で心配で、私はどうすればいいのかって」

「院長……」

 ずべーっと鼻水が顎の下まで垂れている。普段はおしとやかでおっとりと微笑む場面しか見たことが無かったため、ここまで取り乱している姿は初めて目にした。それほど心配させてしまったのだろう。アイビーは鼻水に気を付けながら院長を抱きしめて無事を伝えた。

「でも、一体何があったの? ドラゴンがリーニャに向けて毒を吐いたのを見たけど」

「それがねえ……」

「アイビー!」

 今度は横から体当たりをするようにして抱きしめられた。あまりの勢いに受け止めきれず、背中から大きくよろけた。咄嗟に手を出したトクスに支えられなければ地面に倒れ込んでいる所だった。

 この声は。信じられない思いで抱きついてきた誰かに目を向け、アイビーの双眸から大粒の涙があふれ出した。

「ユノ!」

 最も心配していた顔の登場に、アイビーは強く抱きしめ返した。

「無事だったのね!」

「アイビーこそ! すっごい心配してたんだよ!」

「あたしだってそうよ! だってユノ、ドラゴンに食べられたんだよ! 絶対に死んじゃったって思って……!」

「生きてるよ、大丈夫だよ! ちゃんと触れるでしょ?」

 瑞々しくてもっちりとした頬、力仕事が苦手で華奢な肩。少しだけ荒れた手と順番に触っていき、そのどこにも体温を感じて、ようやく心の底から安心できた。

 良かった良かったと飽きるほど互いに抱きしめたところで、ふと違和感を覚えた。

「本当にどこにも怪我はないの? ドラゴンに放り投げられたとき、血だらけだった気がするんだけど……あたしの見間違い?」

「ううん、見間違いじゃないよ。ここの近くに乾草を保管してる小屋があるでしょ? あそこに落ちたの。衝撃はちょっとだけ和らいだんだけどね、骨もあちこち折れてるし、心臓も止まりかけだし、ほとんど死んでて、生きてる方がおかしいみたいな状態だったの」

「?」

 さらに詳しく聞くと、ドラゴンの毒はリーニャの人々を苦しめたらしい。シャガの言う通り毒は人々の命をすぐに奪うことはなく、しばらくは誰もが苦しんでいたという。医師団が来るより先に到着した兵たちは、治療をしやすいようにと村人たちを孤児院の庭に集め、応急処置などを行っていたという。最も重傷だったのは当然ユノで、下手に動かさない方が良いと判断され、落下地点で救護を受けていたらしい。

 毒の息は風に流されて消えつつあったが、それでも完全に晴れたわけではなく、救護を担う兵たちにも苦しむ者が出始めたという。

「私も、助かるのは絶望的だって言われたし、自分でも思ったの。多分死んだら、ここを通って神様のところに行くんだろうなって感じの道も見れちゃった」

「しかし、あなたは見事に回復されているではありませんか」

「うん、それがね……って、え? 誰、この人?」

 ユノも六年前にトクスに会っているはずなのだが、アイビーみたくちゃんと覚えていたわけではなかったようだ。アイビーはユノに手早く主従二人の紹介を済ませ、言葉の続きを促した。

「うんと……説明するのは簡単なんだけど、理解してもらえるか……」

 言葉を選ぶように逡巡してから、ユノは「私も朦朧としてたから、間違ってるところがあるかも知れないけど」と前置いて、

「女の人が来て、怪我を治してくれたの」

「女の人?」

「うん。口の中になにか突っ込まれたなーって思ってたら舐めなさいって言われて、気分がすっきりして体を起こしたら、怪我が全部消えてて……」

「なんですって?」

「一応聞くけど、ユノの妄想じゃない、よね?」

「現実だよ! じゃなかったら今ごろ死んでるよ!」

 健康体であることを示すように、ユノはその場で何度も飛び跳ねて見せた。にわかには信じられず、アイビーはトクスと目を合わせてから、院長にも事実か問うた。

「本当なのよ。これを飲んでくださいって水をみんなに配ってくれたわ。それを飲んだら、苦しんでたのが嘘みたいに楽になったのよ。名前を聞こうと思ったんだけど、いつの間にかいなくなってて」

「殿下、心当たりの幻操師は?」

「ない。どんな容姿だったかお伺いしても?」

「ベールを被ってたから、あんまり分からないのよねえ」

 嫌っている幻操師であるトクスが目の前にいるというのに、院長は単純に忘れているのか、それどころではないのか、助けてくれた女性の外見をぽつぽつと挙げていく。

「祭服みたいな衣装だったかしら。目がバラみたいな赤色だったのがすごく印象的で」

 念のため他の大人にも手分けして聞いて回ったが、誰もが院長と同じ特徴を述べた。

 村人たちは徐々に帰宅を始め、医師団も撤退していった。負傷者がどこにもいないのだから、これ以上ここに留まっていても意味はない。兵はしばらく警護のためにリーニャに残るという。アイビーを捜してシャガが再び現れる可能性もあるからだ。

「祭服に赤い目、傷を癒す、か……」

 トクスは顎に手をやり、眉間に皺を寄せている。

「どうしたの?」

「いえ、一瞬だけ『まさかヘデラでは?』と思ったんですが」

「? でも聖女は死んだんでしょ? だったら別人だと思うけど」

「ですよね。突拍子もないことを考えてしまいました」

「殿下は時々せっかちというか、浅慮ですよねぇ」

「反論できないな」

 軽く肩をすくめ、トクスが苦笑した。

「そうだ、院長。その女の人がいなくなったのっていつ?」

「そんなに時間は経っていないわよ。三時間くらい前かしら」

「分かった、ありがとう。トクス、今からその人を捜したいんだけど、いいかしら」

 どこの誰かは分からないが、一言だけでも礼を言いたかった。謎の女性が来ていなければ、瀕死のユノが助かることはなかっただろうし、孤児院や村のみんなも、助けに来た兵たちも、もっと苦しんでいたに違いない。

 アイビーは狙われているのだし、迂闊に動いてはいけないと反対されるだろうか。しかしトクスは「奇遇ですね」と頷いた。

「俺もそうしようかと思っていたところです。どんな手を使って彼らを治癒したのか気になりますし、もし幻操師なら把握しておかなければいけない。仮に徒歩で三時間前にここを経ったのなら、捜すのは難しくないでしょう」

「祭服を着ていたというなら、聖都にも遣いを出して調べさせた方が良いのでは? あそこなら祭服姿なんてゴロゴロいるでしょうし。誰か手配いたします」

「ああ、助かる」

 アイビーは院長やユノたちに一旦別れを告げ、トクスと共に天馬に跨った。

 リーニャ近辺は平原で、遮るものが無い。人が歩いていればすぐに分かるが、二人で見下ろしてもそれらしき人物は見えなかった。平原の東にある丘陵を越えると同じ領主が治める別の町があり、そちらで女性を見かけていないか聞きこむのはナシラが請け負った。

「馬とか馬車に乗ってたら、もっと遠くまで行ってるんじゃないかしら」

「可能性はありますね。逆方向も見てみましょうか」

 トクスが手綱を引くと、天馬は優雅に進行方向を変えた。

 ふとアイビーは平原の花が著しく潰れた部分に目を止めた。一昨日、シャガのドラゴンが降りたった位置だ。その近くには、ユノが落としてしまったカゴも草に埋もれるようにして残されている。

「どうかなさいましたか?」

 アイビーが落馬しないよう、トクスは後ろから腰に手を回して支えてくれている。そのぶん距離が近づいて、彼の温和な声が耳元でしっとりと響いた。

「あたしがドラゴンから落ちた時、このあたりから水の柱が出ていたの。地面から噴き出してきたのかなと思ったんだけど、どこにもそんな穴が見当たらなくて」

「そういえば俺も見かけました。間欠泉なんかこのあたりにあったかと戸惑ったんですが」

「ううん、ないはず。何かと見間違えたかしら。幻覚だったとか……」

 だとしたら、シャガとドラゴン、トクスまで幻覚を見たことになる。それはさすがにないだろう。

「あるいは夢だったか」

「そんなわけないじゃない」

 けれど、地面のどこにもそれらしき穴がないのも事実だ。トクスが夢だというのも仕方がない。

「でも、そうね。夢ね……」本当を言うと、とアイビーは天馬のたてがみを撫でた。「なんだか夢みたいだなと思ってたの。あたしは眠っていて、これは起きたら消えてしまう夢なんじゃないかって。孤児院のみんなも元気だったし、余計にね。だけど潰れた花畑とか、こうして空を飛んで、風を全身で感じることとか……やっぱり現実なんだわって」

「そうですね。夢ならどれだけ良かったことか」

「だけど、こうも思うの」

 言葉にしていいものか、アイビーはしばらく口ごもった。

 バカなことを考えていると呆れられないだろうか。不謹慎だと咎められるかもしれない。

 けれど黙ったまま言葉を溜め込んでしまうより、素直に吐き出してしまう方が楽だ。ここまで言っておいて「なんでもない」と逃げてもトクスは追及してこないだろうが、なんだか嘘をついているようで嫌でもある。

 意を決し、アイビーは小さく深呼吸をした。

「こんなことになってなかったら、トクスとも会えなかったんじゃないかって」

「それは……」

「とんでもないことを考えてるって分かってるわ!」

 彼に呆れられるのが怖くて、アイビーは肩を縮こまらせた。

「もちろんシャガに感謝なんかしてない。ユノやみんなを傷つけて、あたしのことは聖女だって勘違いして狙ってきて、怖いし苦手だし顔も見たくない。……でも、あたしが狙われてなかったら、もしかしたらトクスとは会えてない」

 還天祭で会えたらと祈っていたものの、護衛に囲まれた彼に近づくのは難しいし、せいぜい遠くから姿を見る程度しか出来なかったはずだ。身分の違う彼に会える機会がそうそう巡ってくるとも思えない。

 だが今は、アイビーのそばにいる。間近で会話をしている。

 ずっと胸のうちに沈んでいた――沈ませていた随喜が、こんな時に顔を覗かせてしまった。

「――俺もですよ」

 かすかに震えた声と吐息が、アイビーの耳朶を撫でる。

「こんな事態になったからこそ、俺はアイビーと再会できた。幻滅されるから黙っていろとナシラには言われたんですが、落下してきたあなたを助けられた時、俺がどれほど安心して、嬉しかったと思います?」

 顔を見られないのでどんな表情をしているかは分からないが、多分トクスは首まで真っ赤にしているだろう。アイビーの頬も熱い。風で少しでも冷ませたらと思ったが、あいにく陽風は中途半端にぬるかった。

 お前ら、そんな話をしている場合か。状況を鑑みろ。そう毒づくように、天馬がぶるぶると首を振って唸るように鳴いた。二人が甘く色づいた罪悪感を吐露し合っている間も、天馬はずっと眼下に人影がないか気を配っていたらしい。ぶすう、と不貞腐れたような鼻息も二度ほど続いた。

「悪い、悪かったって。怒るなよ」

「話してる間もちゃんと下は見てた、本当よ!」

 この場にナシラがいなくて良かった。彼がいたら小言が何十個も飛んできていたはずだ。

 わたわたと謝ったり言い訳をしたりしてから気を引き締め、二人は祭服姿の女性がいないか辺りを見回した。しかし、どこにもいない。リーニャから少し離れた西の方角には木が生い茂る森があり、一応上空を飛んでみたものの、幾重にも重なった葉が邪魔をして様子が窺えない。

「でもこの森って、ちゃんとした道はないはずよ。森の向こうに町があってみんなで出かけたことがあるけど、中を通ったことはないわ」

「大回りして行くんですか」

「ええ。クマや猪が出るみたいで、道もほとんど草に覆われてて歩きにくいの」

「聖都とも逆方向ですし、こちらには行っていないかも知れませんね。あと一往復して南北も確認したら、離宮でナシラと合流しましょう。夜までには戻って、兄上を見つけたかどうかの報告も受けなければ」

 その後、二時間ほどかけて女性を捜したが、結局見つかることはなかった。

 名乗ることも無く、すぐに立ち去ってしまったという彼女は何者なのだろう。ナシラが目撃情報を手に入れていることを願うばかりだ。

 二人が離宮に戻ったのは、陽が沈んで月が昇り始めた頃だった。

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