第3話
「ひどく錯乱されていると聞きましたが、シャガさまは大丈夫でしょうか」
「分からないな。聖女が亡くなってからずっと不安定だ」
羽織っていたローブを側近兼護衛に渡し、彼は重厚な椅子に腰かけた。父王が異国から取り寄せたそれは座り心地がよく、まるで雲の上に腰かけているかのような優美さがある。
「明け方に帰ってきたと聞いたが、兄上はどこへ行ってたんだ?」
「リーニャの孤児院へ慰問に。西の方角ですから、ヒュドラ災害の時に毒での被害者が続発した場所ですね。しかしまあ、明け方とは。ずいぶんお早いお戻りで」
「リーニャか……兄上の心を刺激する何かがあったのだろうか」
自分も六年前に慰問に訪れたが、腕の炎が暴発してからというもの、足を運ばないようにしている。あそこの院長はひどい幻操師嫌いだと聞くし、心を慰めるための慰問で不愉快な思いにさせるわけにはいかないからだ。
「あの孤児院ということは……彼女は元気にしているかな」
「ああ、殿下に水をぶっ掛けたとかいう不届き者の少女ですか」
「どんな覚え方をしてるんだ。それに、あれは俺が悪かったんだ。彼女を責めてやるなよ」
苦笑しながら諌めると、側近は不服そうに狐色の瞳を曇らせた。主思いなのは良いことだしありがたいが、あの時は少女が事情を知らなかったのだ。
それに、あれをきっかけに自分は間違いなく救われて変われたし、前に進むことが出来た。
「十歳くらいだったから、今はきっと大きくなっているだろうな」
「殿下、時々その不届きも、」
「次に不届き者と言ったら、いくらお前でも怒るよ」
「失礼しました、改めます。時々その少女のことを口にされますね。よほど気にかけておられるようで」
「……そうかな?」
「一週間に一度くらいは呟いておられますよ、『元気かなあ』と。自覚、ないんですか」
ないわけではなかったが、頻度は少ないと思っていた。一カ月に一回とか、半年に一回とか。彼女は自分に良い影響をもたらしてくれたし、その分、彼女の笑顔が心に残り続けているのかも知れない。
炎を見た時、「カッコいい」と、「キレイだ」と言って目を輝かせていた顔が、いつまで経っても忘れられない。むしろ色濃く鮮やかに焼き付いて、忘れてしまうことの方が難しい。
「会いに行けばよろしいのに」
「そう簡単には無理だよ、俺にも立場がある。それに……」
肘掛けにもたれ、袖の下に隠れている契約印に目を落とした。ヒュドラ災害の時に思いきり使って以来、鍛錬以外で炎を出す機会はめっきり無くなった。
「彼女はもう、俺のことなんて忘れているかも知れないし」
「六年なんてあっという間ですから、可能性はありますね。私ももう、兄の顔をおぼろげにしか思い出せません」
「……シロンの行方はまだ分からないんだな」
「ええ。失踪した理由も不明なままです」
もうどこかで野垂れ死にしていることでしょう、と側近はティーカップに茶を注いだ。隠しきれていると思っているのだろうか。彼の声には不安と懊悩が滲んでいる。
差し出されたカップを受け取ると、ベリーの甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。クマに似た風貌のせいで誤解されがちだが、側近の手先の器用さと繊細さは王宮一で、紅茶を入れる腕は熟練の女中にも勝る。
「そういえば還天祭でのお召し物が届いたと先ほど連絡がありましたので、休憩後はそれを確認していただきます」
「ああ、分かった。ひとまず今はゆっくり休憩しよう。ナシラ、お前も一緒に」
「えー、私は一人でくつろぎたい派なのですが」
そう言いつつ、彼はしっかりと自分の分も茶を注いでいた。
昔は互いに名前で呼び合っていたのに、側近はいつの間にか「殿下」としか呼んでくれなくなった。それでも、ふとした瞬間に当時の空気が蘇って嬉しくなる。
「なにニヤついてるんですか、気持ち悪い」
「……訂正する。口の悪さが増しているのは悲しい」
「はあ?」
「なんでもな……なんだ?」
カタカタと窓が音を立てる。立ち上がって身構えると、それを庇うように側近も腰の剣を抜いた。窓だけが揺れているなら風が強いのかと思うが、快晴の下はそよ風しか吹いていないし、机や床まで揺れている。
「地震でしょうか」
「いや、それにしては長い。少しずつ大きくなって」
いるようだ、と言い終える前に、爆発音がした。何事かと外に目を向けると、がらがらと瓦礫が地面に降り注いでいる。側近と共に廊下へ出ると、召使いたちが悲鳴を上げながら右往左往していた。
「なんだ、一体何が起こっている!」
「殿下、外へ避難した方が良いのでは」
「きゃあっ! なにあれ!」
女中の一人が中庭を見て腰を抜かした。彼女は震える指で何かを指さしている。急いで近くに駆け寄り、指さす方へ目を向ける。
「なっ……!」
一瞬、夢かと思った。
黒い鱗に覆われた筋肉質で巨大な体と、腕の位置から生えているコウモリのような、けれどそれ以上に頑丈そうな飛膜。鋭い爪を有した後ろ足は王宮の一番太い柱よりなお太く、トカゲに似た凶悪な顔の上部には乳白色の角が四本生えていた。
あれに似たものを、自分は五年前に討伐したことがある。
「幻獣ヒュドラか!」
「顔は似ていますが体が全く違います! あれは……」
「ドラゴンっていうんだよ」
凛とした声が背後から聞こえた。二人そろって振り向くと、逃げる人の波に逆らいながらこちらに歩いてくる姿があった。
「兄上!」
「やあ、お二人さん。相変わらず仲がいいね」
今朝から部屋にこもりきりだった兄、シャガだ。錯乱したと聞いて心配していたのだが、やや血色の悪い顔には笑顔が貼りついていた。
――笑顔?
ゆったりとこちらへ近づいてくるシャガに、一抹の不信感が芽生えた。
――どうしてこの状況で笑っていられる?
「兄上、今ドラゴンと……」
「そう。知らないかな? 魔術師がもっとたくさんいた昔には、鳥よりも多くいたと言われている幻獣だよ。今ではほとんど狩られてしまって、姿を見かけることはなくなった。おかげで参考資料がカビの生えた古めかしい文献くらいしかなかったけど、なんとか上手く作れたよ」
「……作れた? 兄上、まさか」
「伏せて殿下!」
勢いよく突き飛ばされて廊下に転がった直後、シャガと自分を分断するように壁が外から破壊された。一瞬にして瓦礫と化した壁や調度品はうず高く積み上がり、兄はその上に立って大仰に腕を広げる。
「すごいだろう? 自信作なんだ!」その背後に、のそのそとドラゴンが近づいてくる。歩くたびに地響きがして、王宮はさらに崩れた。「本当はもう少し時間をかけて作るつもりだったんだけどね、仕方ない。急いで仕上げた割には良い出来だと思わないかい?」
「さっきから何を仰っているんですか! 意味が分からない!」
正確には「分かりたくない」のだ。
兄の言葉を、頭が拒否している。受け入れられない。
――作れたって、幻獣ドラゴンを?
「技術だって失われたはずなのに……!」
「そうとも限らないさ」
兄はくるりと背を向け、ドラゴンによじ登った。勇ましい幻獣と麗しい金髪の王太子。まるでおとぎ話に出てくる登場人物だ。
「本当に失われたと思うのか? 魔術師の家系だって完全に途絶えたわけじゃないんだ。ああ、一応言っておくと、現存している魔術師に力を借りたわけではないよ。反乱者だとして彼らを捕らえたりしちゃいけないからね」
「捕らえられるのはあなただ、兄上」
普段なら服が燃えないようにと袖をまくるが、そんな短い動作すら惜しい。右腕に炎を纏い、側近の制止も聞かずに走り出した。
瓦礫を駆け上がり、一気に兄とドラゴンに近づく。ぐるう、とドラゴンは喉を鳴らし、金と赤が混じり合った瞳でこちらを見下ろした。かと思うと、
「っ!」
勢いよく首が薙がれ、危うく体に直撃しかけた。寸前のところで身を伏せたが、まともに食らっていれば、骨が何本も粉々に折れた上で、はるか彼方まで飛ばされていたかも知れない。
「はっ! 幻獣ヒュドラを狩った時に比べて腕が鈍っているんじゃないか? そんな調子で僕を捕らえるだなんてよく言えたな」
炎と化した腕や分離させた部分は一定の距離までなら伸ばせるが、そのぶん威力が落ちてしまう。見たところドラゴンの皮膚は厚く、半端な距離でダメージは負わなさそうだ。だから出来るだけ近づこうと思ったのだが、予想以上に難しい。
自分一人で何とかするには力不足だ。側近は応援を呼びに行っているだろうし、ひとまずは兄をこの場に引き止めなければ。
「兄上、一体何を考えておられるのです?」
「単純さ。『ヘデラに会いに行く』。ただそれだけ」
「彼女は五年前に亡くなったでしょう! 受け入れられないのは分かりますが」
「ヘデラは死んでない! だって見たんだ、会ったんだ! 昨日、孤児院で!」
唾を飛ばしながら喚く姿に、昔の優しい兄の影は見えない。
シャガが聖女に想いを寄せていたのは、王宮に出入りする者や兄に近しい者なら誰もが知っている。彼女を喪ったことでどれほど傷つき、嘆いたのかも。
だが時間が解決してくれると。だから温かく見守ろうと思っていた。
どうやらそれは、淡い期待だったようだが。
後悔の間もなく、兄の一言にハッとした。
「……会った? 孤児院で?」
「そう、そうなんだ! 夕陽で染めたみたいな朱い髪と血の色みたいなキレイな目! あまりの懐かしさと嬉しさに感動したんだよ!」
けたけたと狂喜的に笑う姿はどこか虚ろで、曇った眼はここではないどこかに向けられているかのようだ。
「……何度も言うようですが、兄上。聖女は亡くなって、火葬されたんです。だから」
「別人だとでも? 違う、違う違う違う! あれは間違いなくヘデラだった! だから迎えに行くんだ、今度こそ結ばれるために!」
兄はドラゴンの首にまたがり、馬の脇腹を蹴るのと同じように、ドラゴンの首を蹴った。オオ、と何種類もの獣の鳴き声が混ざり合ったかのような咆哮を上げ、翼を振るった直後、兄と幻獣の姿は消えていた。
天を振り仰ぐと、ドラゴンが飛び去って行くところだった。風に乗り、遠く離れていくシャガの哄笑も降ってくる。
「殿下、ご無事ですか!」
がしゃがしゃと鎧の擦れる音がする。大勢の応援を連れて側近が戻ってきたらしいが、一足遅かった。もう少し引き止められれば良かったのだが。苦悩に唇を噛みつつ、腕の炎を消した。袖は燃え尽き、幻獣との契約印が露わになっていた。
ぐらりと足元が傾ぐ。無造作に積み上がっただけの瓦礫が徐々にバラバラと散り始めていた。急いで床に戻った直後、瓦礫の山は轟音を立てて崩れ落ちた。
「みんな無事か。父上たちは?」
「お怪我もなく避難されております。王女さまたちもご無事です。負傷した者もおりますが、いずれも命に別状はありません。あと、左翼が完全に崩壊しておりますね」
王宮の左翼というと、シャガの部屋があるところだ。
そのほか中庭なども半壊状態だという。季節ごとに彩り豊かなバラが咲き誇っていた庭園も、ドラゴンが生み出した風圧にやられて目も当てられないらしい。
「外にいた者の目撃情報によれば、シャガさまのお部屋から急にドラゴンが現れたと……」
「……『作った』と言っていたのは、どうやら間違いじゃないらしい」
幻獣を作成した者は、いかなる理由であれ厳しい処罰が下され、最悪は火刑に処される。それは王族であろうと例外ではないはずだ。
シャガの精神状態はまともではない。このまま放置していては何をしでかすか分からないし、最悪の場合はヒュドラ災害と同等の被害を生みかねない。
急いで後を追い、連れ戻さなければ。
「それで、シャガさまと幻獣はどこに?」
「……迎えに行く、と言っていた」
兄の言葉から判断するに、向かう先は一つしかない。
聖女と再会したという、リーニャの孤児院だ。
「あっ……!」
「殿下?」
「イヤな予感がする!」
「あっ、ちょ、いきなり走り出さないでください殿下!」
話をしている時間はない。急いで厩に行き、鞍を外そうとしていた厩番に待ったをかけて飛び乗った。のんびりと水を飲んでいた青毛の愛馬――幻獣
悪いなと謝る余裕もなく、ただ「急ぐぞ」とだけ言うと、愛馬は「心得た」と応えるかのようにいななき、両肩の上に生えた翼を大きく振った。
「待ってくださいって、殿下!」いざ飛び立とうとしていたところを、遅れてきた側近が立ちふさがった。「ドラゴンが現れたのですから、陛下が幻獣討伐隊を編成するはずです。殿下はそれをお待ちいただいた方が」
「兄上は聖女に会ったと言っていた。『朱い髪に赤い目』だったと。俺の知る限り、あの孤児院で外見の特徴が一致するのは一人しかいない!」
「六年前に会った少女ですか? しかし殿下が訪問した時と今とでは暮らしている子どもは変わっているでしょうし、いささか早計では」
「違ったなら違ったでいい。とにかく今重要なのは、『兄上が聖女によく似た子供をさらう可能性がある』ということだ!」
孤児院の院長はただでさえ幻獣嫌いなのだ。急いで追いつかなければ余計な混乱を生むだろうし、兄の行方も分からなくなる。
「叱責ならあとでいくらでも受ける。今は兄上を止めるのが最重要だ。お前は父上にリーニャに向かってくれと伝えてくれ!」
手綱を握ると、天馬は力強く地面を蹴り、走り出して間もなく飛び立った。頬に当たる風は冷たく、先ほどまですっきりとした青色が広がっていた空には、いつの間にか灰色の雲が広がり始めていた。
まるで、これから起こるであろう混乱を暗示するかのように。
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