第2話

 無理って、なんで。掠れた声で問うと、彼女は「だって遠いんだもの」と地面に指を伸ばした。

「孤児院があるリーニャはここね」ユノは小さな丸を描き、そこから少し離れたところに大きな丸を描く。「で、殿下たち王族が住んでるアブロはここ」

「そんなに遠いところなの?」

「馬車に乗って一日半くらいかな」

「一時間で済ませられる距離じゃないわね!」

 なんてことだ。自分はただ、殿下と話をしたいだけなのに。

 そもそも彼は王族で、自分は孤児だ。対等に話せるような身分ではない。仮に王都まで行ったとしても確実に会えるとは限らないし、会えたところでどれだけ話が出来るかも分からない。

 こうなったら院長に直談判するしかないか。「弟殿下に会いたいんです」と嘘偽りない気持ちを伝えれば、院長だって頷いて、王都まで連れて行ってくれる、かも知れない。

「あ、でも、まだ希望はあるよ」

 ユノは二つの丸の中間あたりを指さし、とんとんと軽く叩く。

「二週間後、みんなで聖都に行くでしょ? そこでなら会えるんじゃないかな」

「ああ、還天祭かんてんさいだっけ」

 五年前のヒュドラ災害以来、国には二つの記念日が設けられた。

 一つは四月七日の「ヒュドラの日」。ヒュドラ災害が完全に終結した日だ。主な式典は王都で行われ、各地の礼拝堂でも同時刻に祈りが捧げられる。二日前に孤児院で行ったのはこれだ。

 そしてもう一つは、四月二十三日の「聖女還天の日」。死した人が神の元に還ることを還天かんてんといい、二十三日はヒュドラから人々を救い、癒した聖女が命を落とした日だ。魂は五年かけて神の元に辿り着くと言われており、今年はその節目の年で、初めて式典が行われる。

「多分だけど、弟君も来ると思うよ。弟君も聖女も、やり方と立場は違うけど国を救った同志みたいなものだろうし」

「じゃあ式典が始まる前か、終わった後にでも突撃してみるわ! ……でも『覚えてますか』って言った後はどうすればいいのかしら。緊張しすぎて話せなくなりそう」

「アイビーってば、顔真っ赤っかだよ」

 まるで恋してるみたい。ユノのからかいに、アイビーの頬がさらに熱くなる。

 違う、自分はただ殿下に会いたいだけで――どうして? そういえば、どうして自分は殿下に会いたいとこれほどやきもきしているのだろう。

 彼の笑顔を見て幸せだと思った。だからもう一度、殿下の笑顔を見たい。果たして理由は本当にそれだけなのか。

「あっ、シャガさまが来た」

 少しばかり興奮したように、ユノがアイビーの手を握って立ち上がる。彼女と一緒に庭に目を向けると、護衛と院長を引き連れたシャガが外に出てきたところだった。はしゃぎ回っていた子どもたちは先生に指示され、もたもたと横一列に並ぶ。アイビーとユノも慌てて列の端に並びに行った。

「当院には三歳から十七歳まで、五十人の子どもが暮らしております。そのうちのおよそ半分がヒュドラ災害で親を亡くした子たちです」

「そうなのですね。伯爵の話では、一時期は許容人数を越した子どもを預かっていたそうですが」

「災害の直後は、半ば避難所と化しておりましたから。騒動の中でご家族とはぐれてしまった子もいたんです。ほとんどの子は無事に家に戻りましたが……」

 院長と話をしつつ、シャガは整列した子どもたちへ順番に声をかけていく。アイビーはその横顔を窺いながら、「弟殿下とはあまり似てないわ」と内心で呟いた。

 白い手袋に包まれた手はしなやかな動きで小さな子の頭を撫で、穏やかな笑みを浮かべる顔は慈しみ深い。背はすらりと高いが威圧感はなく、親しみやすさが感じ取れる。だが、やはり纏う雰囲気の中にほの暗さが混じっていた。

 どこまでも透明で美しい水の中に、ほんのわずかに垂らされた一滴の墨のような、そんな違和感だ。得体の知れない気味の悪さがあったが、単純に初めてお目にかかるから緊張しているだけだろうかとも思う。

 くい、と袖が引かれ、隣のユノがアイビーの耳元に口を寄せた。

「もうすぐ私たちの番だね」

「お会いできて光栄ですって言えばいいの、よね」

「そうそう。『弟殿下に会いたかったのに』って言っちゃダメだからね?」

「分かってる」

 うっかり口を滑らせてしまいそうだが、何とか堪えなければ。

 一人一人と言葉を交わしながら、シャガはゆっくりと近づいてくる。よほど期待しているのか、横目で見やったユノの鼻の穴がいつもより膨らんでいた。多分、弟殿下に会えると喜んでいた数分前までの自分も、こんな風だったに違いない。

「やあ、初めまして」ついにシャガがユノの前まで来た。彼に声をかけられ、ユノが緊張気味に挨拶を返す。「君は何歳なんだい」

「じゅ、十七歳です」

「じゃあ来年からは外の世界に飛び出すんだね。夢はあるのかな?」

「はい! 薬師になりたいと思っています。私の両親は流行り病で命を落としました。それで――」

 夢を語るユノの笑顔は眩しい。勢いよく将来を語る彼女の話を聞きながら、アイビーもぼんやりと将来を考えた。

 二年後には自分も孤児院を出て行かなければならない。そのあと、自分はどうすればいいのだろう。

 家族や故郷を探そうかと思ったこともあるが、今のところ、その辺りの記憶は一切戻っていない。だから探しようがない。ユノのような確たる夢も特にないし、一人で生きて行けるのか、正直なところ自信はない。

 ――ああ、でも。

 弟殿下に会いたい。これも十分な夢の一つになるはずだ。

 それから先のことは、まだ考えなくてもいいだろう。残された時間は短いようで長いのだから。

 ふっと目の前がかげる。顔を上げると、ユノと会話を終えたシャガがアイビーの前に来ていた。

「あ……えっと、お会いできて光栄、です」

 たどたどしく挨拶をし、アイビーは軽く頭を下げた。

 そよ風に吹かれ、結われた金髪が軽やかに舞う。日光を受けて輝く様は、まるで数多の星が真昼に輝いているかのようだ。ほつれのない純白の上着とジレは、間近で見ると刺繍の繊細さがより美しく感じられる。

 しばらくじっと待ったが、シャガからなかなか声がかからない。失礼なことをしてしまっただろうか。彼より先に挨拶をしたのがいけなかったのか。

 どうしてだろうと顔を上げ、アイビーの肩が一瞬だけ震えた。

 こちらを見下ろすシャガの深緑色の目が、大きく見開かれていたのだ。

 やや青ざめた唇がふるふると震え、少しずつ口の端が上がっていく。血色の悪かった顔には赤みが差し、何かを言おうとして、けれどまとまりきらなくて言葉を飲み込むように、何度も息をのんでいた。

「あの……?」

 どうされましたか、と声をかける寸前、シャガがアイビーの手を勢いよく掴んだ。

「ヘデラ、どうしてこんなところに!」

「――はい?」

「ずっと探していたんだ。突然いなくなってしまったから、僕はもうどうすればいいのか分からなくて分からなくて。でも良かった、ここで元気に暮らしていたんだね!」

 急に人が変わったかのように、シャガは早口でまくしたてる。アイビーは素早く視線を巡らせて、誰かにこの状況を説明してほしいと目で訴えたが、周りの誰もがぎょっとして、手を出していいものか悩んでいるようだった。

「あ、あのっ、失礼ですけど誰かとお間違えじゃ……」

「間違えるもんか、だって君はヘデラじゃないか!」

「あたしの名前はアイビーですっ!」

 ヘデラなんて名前に心当たりはないし、シャガとの面識もない。

 ずいっと彼が顔を近づけてきた。先ほどまでと違い、ぎらつく瞳は獲物を見つけた狩人に似ている。反射的にアイビーは背を反らして顔を離したが、さらに近づけられるだけで逃げ場がない。

「こうして会えるなんて運命だ、運命以外の何物でもない。そうだろう? 君の体は燃やされたって聞いて、二度と会えないんだと思ってからは毎日が灰色だった。だけどこの瞬間、僕の世界は再び色づいた!」

「ちょっ……痛っ……!」

 手を力強く握られ、思わずうめき声が漏れる。手袋越しに感じる彼の手はやたら骨ばっていて、まるで骸骨がいこつのようだ。振りほどこうにも、しっかりと包み込まれていて腕が引けない。

 だがようやく、護衛たちが我に返ってくれた。

「殿下、落ち着いて下さい!」

「聖女さまは神の元に還られたのです!」

 と次々に声をかけるが、シャガは一切聞き入れない。

 こうなったら仕方ないとばかりに護衛たちは互いに顔を見合わせ、シャガの肩や腕に手をかけ、半ば乱暴にアイビーから引きはがした。手が握られたままだったのでアイビーも引きずられかけたが、別の護衛が丁寧に指を解いてくれて助かった。

「止めろ、手を放せ! ヘデラも一緒に王宮へ連れて行くんだ、今度こそ認めてもらうんだ!」

「お気を確かに、殿下! 暴れないでください!」

「あー、くそっ! なんでこんな時に限って側近の野郎がいねえんだ!」

「ぼやいてる場合か! シャガさま、しっかりなさってください!」

「聖女さまの還天は間もなくだと、先日仰っていたではありませんか!」

「ヘデラは天に還ってなんかいないんだ。だってほら! 僕の目の前にいるじゃないか!」

「確かにこの子は似ていますが、髪が朱いというだけです! 年齢だって違うでしょう!」

 先ほどまでの落ち着いた雰囲気はどこにもなく、シャガは体を拘束されてなお、美しい髪を振り乱してまでアイビーに近づこうと、手を伸ばそうとする。

 結局シャガは複数の護衛に担がれ、庭から引き揚げられた。困惑する院長は領主から何かしら説明を受けていたが、その領主もシャガが豹変した理由が分からないらしかった。

 今のは何だったのだろう。アイビーが痛みの残る手をさすりながら呆然としていると、ユノや他の子どもたちに取り囲まれ、「大丈夫?」と次々に声をかけられる。いつまでも呆けてはいられないと気丈に振る舞ったものの、アイビーの心は落ち着くことなく揺れ動いたままだった。


 硬めのベッドにぼすりと腰を下ろし、アイビーは長いため息をついた。肩を回すとコキコキと音がする。数日間分の期待と緊張とでひどく凝っていた。肉体的に疲れはそれほどないが、精神的にはとてつもなく疲弊している。

 あくびをしながら窓に目を向けると、満天の星空がどこまでも広がっている。ぐらぐらと不安定な心が癒されるようで、アイビーはしばらくそれを見つめていた。

 ぎい、と扉が開く軋んだ音がする。向かい側のベッドに座ったのはユノだった。孤児院の部屋は二人部屋から四人部屋まであり、アイビーはユノと二人でこの部屋を使っている。

「お疲れさま。ミルク持ってきたけど、飲む?」

「うん、ありがとう」

 ユノが差し出した白いコップを受け取り、こくりとミルクを口に滑らせた。ほどよく温められ、ほのかな甘みが体にしっとりと染みていく。

「今日は大変だったね。特に……殿下が」

「何だったのかしら、本当に」

 あのあと、シャガが平静を取り戻すことはなかったらしく、さっさと王族一行は帰ってしまった。アイビーも院長の部屋に呼ばれ、殿下と面識があったのかなど細かく聞かれたが、あたしだって何も分からないんですと言うほかなかった。

「最終的にさんざん愚痴を聞かされたわ。『王の息子にまともな人はいないのか』って」

「弟君は幻操師だし、兄君は急に豹変したし。院長が嘆くのも仕方ないかも」

「ねえ、あの人……シャガさまの言ってた『ヘデラ』って誰なのかしら」

「護衛の人たちが『聖女さま』って言ってたし、ヒュドラ災害の時に命を落とした人じゃないかな。ほら、還天祭の」

 アイビーもユノも、多くの民を救ったという聖女を見たことはない。どんな傷も病も瞬時に癒す人だと噂で聞いたことがあるだけで、顔も名前も知らないのだ。

「……その人に似てたってことかしら。あたしの顔が」

「そうじゃないかな。私たちと話した時とは別人なんじゃって思うくらい興奮してたよね」

「ちょっと怖かった」

 思い出すだけでもぞっとする。どれだけ「違う」と訴えても聞き入れてもらえないのは、悲しいし怖い。肩を縮こまらせていると、ユノが隣に座って肩を撫でてくれた。

「大丈夫だから。アイビーはアイビーだって、私たちは知ってるもん」

「……ありがとう、ユノ」

「怖かったことは嬉しいことや楽しみなことで消すのが一番だよ。例えば、弟殿下のこととか」

「そう……そうね!」アイビーはベッドの枕元に置いていた手巾を手に取り、目の前で広げた。「今度の還天祭で会えるかしら。会ってすぐに殿下だって分かるといいけど」

「絶対に分かるよ。向こうだって気付いてくれる」

「だと嬉しいわ」

 ねえねえ、とユノはベッドに寝ころんで問いかけてくる。

「アイビーは弟殿下のどんなところが好きなの?」

「えっ」どんなところ。単純な問いに、アイビーの頬がリンゴのように赤くなった。「好きっていうか、憧れてるっていうか」

 弟殿下と話したのは六年前の一度きりで、それもわずかな時間だ。そういえばユノたちに彼とどんな話をしたのか、詳しく話したことはない。だからずっと気になっていたのだろう。

 アイビーは手巾に目を落とした。これをくれた時、アイビーの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていたのだ。

「あたし、ここに来てからしばらくユノたちと話せなかったでしょう? どうしたらいいのか分からなかったけど、殿下が勇気をくれたの。炎だってすごく温かくて、なんだか……あたしもこんな風になりたいって、思うようになったのよ」

 恐らく自分は、自覚しているよりもずっと強く、深く、彼に憧れている。

 弟殿下に会えて、自分は変わった。まるで生まれ変わったかのように――いや、きっとアイビーはあの瞬間に生まれたんだと思えるほどに。楽しい、嬉しいという思いは、彼に会わなければ生まれなかった気さえする。

 だから、もう一度会いたい。弟殿下に会えば、また新しい自分を見つけさせてくれるような気がして。

 そして、自分も何か彼に返したい。与えられるだけではなく。

 でも自分に何が出来るだろう。弟殿下は王族なのだから、欲しいものはなんでも手に入るはずだ。孤児の自分に、彼に返せるような何かがあるのだろうか。

「まずはちゃんと、順序立てて会わなくちゃいけないと思うの。急に『殿下、覚えてますか!』なんて突撃したら……」

「うん、そうだね。シャガさまみたいにがんじがらめにされて連れて行かれちゃうかも」

 還天祭で姿を見かけたら話しかけようと思っていたが、冷静に考えてみると、彼は王族なのだ。今日のシャガのように大勢の護衛を連れているだろうし、そう簡単に近づけるとも思えない。

 当日がどんな状況なのか分からないし、結局のところなるようにしかならない。ひとまず今は、「何かしら行動を起こす」とだけ考えるしかなさそうだ。

「還天祭ってどんなことするのかしら。ユノ、知ってる?」

「ううん。私も初めて行くから分かんないな。でもお祭りっていうくらいなんだもの。きっととても楽しいんじゃないかな。ワクワクするね」

「あたしも楽しみ。殿下に会うのも、お祭りも」

 そろそろ寝なさいと廊下から先生の声が聞こえてくる。アイビーはロウソクの火を吹き消し、それぞれのベッドに潜って目を閉じた。

 するりと首筋を冷たいものが流れる。アイビーがずっと身に着けている銀の鍵だ。普段は服の下に提げているため存在感はないが、襟のない服を着た時や、眠る時にふと思い出す。鍵が背中側まで滑っていかないよう位置を直し、久しぶりに鍵をじっくりと眺めた。

 相変わらずどこの鍵なのか思い出せないが、思い出せないということは、案外自分にとって重要なものではないのかもと感じる。

 ――ヘデラ、どうしてこんなところに!

 ふと昼間のシャガの顔が、声が蘇った。彼の瞳は弟殿下のそれと同じ色をしていたのに、光の奥底に鈍く淀んだものが感じられて、薄ら寒かった。

「……何かしら……」

 ちり、と頭がかすかに痛む。

 気のせいだろうか。シャガのあの目を見たのは、初めてではないと感じている。

 それほど遠くない過去に、もっと間近で見たような――

「どうしたの?」

「あ、ううん。なんでもない」

 考える最中の唸り声が漏れていたらしい。気遣わしげに顔を上げたユノにもう一度「なんでもない」と答えると、安心したように彼女は再び目を閉じた。

 これ以上考えていると眠れなくなる。アイビーは残像を消すように軽く頭を振り、鍵を服の下に戻して深い眠りの訪れを待った。

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