Healthy Life!!

瀬野五豆見

Healthy Life!!

「君、誰かのこと本気で好きになったことないでしょ」


 そう言って二年間付き合っていた「彼女」は別れを切り出した。正直、関係が冷めていた事は感じていたし、寂しさはなかった。ただ、去り際に彼女が残したその言葉が胸に何かをねじ込んでいた。多分当て付けみたいなものだったんだろう。彼女の中の悔しさとか憎悪とかそういうものを俺にぶつけたかっただけだったんだろう。唐突で道理も通ってないようなただの捨て台詞。でも、否定が出来なかった。今までの人間関係にも、彼女との付き合いにも、絶対的な物は何も感じられなかった。友達の境界線を超えたという悪い勘違いも、途切れることの無い縁を信じることも、一度も無かったと気づいた。何か致命傷になった訳でもないが、それは確実に生活に侵食していくものだった。胸に杭を打たれたような痛みが蠢き出す。覆い尽くされたら、もう終わりなんだろう。







「ん……」


 寝苦しさで目が覚めた。原因は何となく理解出来たので一先ず放っておくことにした。眠気は少し残ってる。まだ不明瞭な視界の中、手探りでライト近くに置いてあったスマホを探し当てる。時間を確認すると、八時過ぎだった。チェックアウトまではまだ時間があるが、シャワーを浴びなくてはならないことを考えれば、ちょうどいい時間だと思った。三十分後に迫ったアラームを止めて、俺はゆっくり掛け布団を持ち上げた。


「すー……」


 予想通りだった。俺の上に覆いかぶさって寝息を立てている。もちろん一糸纏わぬ姿で。かく言う俺も何も着ていない訳で。


「おい、起きろ」


「すー……」


「そろそろ起きろ」


 頬っぺを引っ張って、そのまま横に伸ばす。苦痛に顔をゆがめて、ゆっくりとその目が開いた。


「……おはよ」


「おはよう」


「まだ眠い」


「昨日は遅かったからな」


 それでも彼女は起き上がることなく、俺のお腹辺りに顔を埋める。その髪にそっと触れる。髪の毛を1本1本ほぐすようにつまんでは手で弄ぶ。ひんやり冷たくて、サラサラしていて、心地がいい。彼女は甘えるように上目遣いでこちらを向いた。


「昨晩はお楽しみだったな」


「お互いにな」


 彼女の問いかけに髪を撫でながらそんな言葉を返す。体を起こして、掛け布団を取った。カーテンを通り抜けた日光が彼女の透き通るような白い肌を照らした。


「改めておはよう」


「ああ、おはよう」


 少し恥ずかしそうに近くにあったタオルで体を隠しながら彼女が言った。


「にしても、すごい乱れようだなこのシーツ」


「そこの一層激しいしわはお前が昨日握りこんでつけたやつだぞ」


「――ッ!」


 近くにあった枕で殴りかかられた。無論、その枕もしわくちゃだった。顔を恥ずかしそうに真っ赤にした彼女がより一層大きく振りかぶった。思わず防ぐように腕を顔の前で組む。枕と言えど、本気でやられたらさすがに痛い。揶揄うのもここまでにしておこう。



 不意に腕が伸びてきて、後頭部に回された。そのまま飛びかかられるようにベッドに押し倒され――唇が重なった。それだけで済むはずもなく、彼女の舌が入ってくる。口内の形全てをなぞるように掻き乱される。負けじと彼女の舌を阻むように自分の舌を絡めた。………………………………。



 そっと彼女の唇が離れた。一瞬だった気もすれば、10分だった気もする。唾液で糸を引いた彼女の唇がとても艶めかしかった。


「いきなりだった割には結構ノリノリじゃないか」


「結構ビックリしてるよ」


 慣れたような対応が不服と言わんばかりに、彼女がムッとした表情を浮かべる。その表情を見ているだけで、堪らなく愛おしくなって、彼女の髪を撫でる。すくってやると砂のように手の隙間から流れ出てきてしまいそうだった。


「もう1回戦、する?」


 女性にしてはハスキーな声で彼女が言う。


「時間ないから無理」


「大丈夫だ。時間はかからない」


「それは俺に失礼だろ」









「頭は洗わなくてもいいんじゃないか?」


 隣の浴槽から声が飛んできた。


「汗かいたしな」


「まあ、洗っといても損はないか」


「サラッとシャンプー足すなバレてるぞ」


「ちぇっ」


 いつの間にか近くなった声が湿った空気を揺らした。


「今日はなんか目覚めがいいんだな」


「昨日飲んでないからじゃないか?」


 いつもなら待ち合わせた後、コンビニやスーパーに寄ってアルコール飲料を買い込むはずなのだが、昨日は彼女が「今日はいい」と言ったから、そのままホテルに来たのだった。


「何で飲まなかったんだ?」


 そう尋ねると彼女は後ろから抱きつくように手を前に回した。


「忘れたくなかったから」


「え?」


「酔いながらだと、感覚がぼんやりしてたり、次の日あんまり覚えてなかったりするから」


 浴室に少しハスキーな声が反響する。


「昨日の事はちゃんと覚えておきたかったし、体に刻みつけておきたかったから」


「……」


「重いか?」


「うん、重い」


「重い女は嫌いか?」


「分かってるくせに」


 なんだか照れくさくて顔が熱くなった。


「いいからお前も洗えよ」


 目を逸らして、取り繕うように彼女を急かした。




 先にバスルームから出て、シャツを着て彼女を待つ。カーテンを少し開けると、冬の眩しさを残した陽射しが、部屋に入り込んできた。窓の下を眺める。往来はスーツ姿の人々がちらほらと見受けられた。その光景をぼんやりと眺めていると、彼女が戻ってくる。上にまだ少し寒そうなTシャツを身につけている。……白い無地のTシャツ『だけ』。


「……薄桃色」


 当然、裾の下にはそこにあるべき布がチラッとこちらを覗き見ているわけで(こちらが故意的に覗いている訳ではない。深淵をのぞくと時、深淵もまたこちらを覗いているのだ)、さらに言えば、白い生地がうっすらと透けてその全貌をむき出しにしているわけで。薄桃色ってもしかすると1番色っぽいのでは?とか考えながら彼女を眺めていると、彼女はソファに置いてあるバッグから何かを取り出した。



 青い石鹸ぐらいの小さな直方体。それが昨日コンビニの棚に並べられていたものだと気づくのに少し時間を要した。彼女が慣れない手つきで何かを探すようにそれを1周回した。パッケージには煙だの健康寿命だの20歳未満云々と一際目立つ大きな字で書かれている。やがて、彼女はやっと探し当てたと言わんばかりにフィルムを開け口から引き裂き、箱から1本の白い筒を取り出したのだから俺は目を疑った。


「え? 吸うんだっけ?」


「言ってなかったか? それにここ大丈夫な部屋だし」


 咥えた煙草に火をつけながら、彼女がそう答えた。


「けほっけほっげほっ」


 咳き込んだ。


「けほっけほっけほっ」


「大丈夫か?」


「だいじょけほっ、ぶだけほっ」


 背中をさすってやる。布越しにブラのホックを手に感じる。


「初めてだったんだな」


「……まあな」


 一通り落ち着いたようだった。見栄を張った意味はあったのか甚だ疑問だ。


「なんで今更そんなこと」


「一度きりの人生だからな。こういうのもやっとかなくちゃ損ってもんだろ」


 そう言って、再び火がついたままの煙草に口をつけた。俺も隣に座って、一本拝借する。彼女に倣って、火をつける。


「げふっごほっ」


 そのまま息を吸うと、喉に煙が張り付いたようで、一気に咳き込んだ。一瞬にして喉が干上がったようだ。そして苦い。初めて作った目玉焼きの味を思い出した。備え付けの灰皿に押し付けて火を消した。隣の彼女もさすがに苦しかったのか、顔をしかめながら同じように火を消していた。


「あまり美味しくなかったな」


 そう言いながら、彼女が肩に頭を預けてくる。ふわっとシャンプーの香りがした。同じものを使っているはずなのに、彼女の方がいい匂いがするように感じる。いつまでもここにいたい、そう思うような香りだった。


「そろそろ出るか」


 俺がそう言うと、彼女は名残惜しそうな表情をした。喉を鳴らして甘える猫にそっくりだった。





 ホテルから出て、駐車場へ。陽の射さない隅っこに1台のカブが鎮座していた。キーを差し込み捻る。特に何の不具合もなく、エンジンが音を立て始めた。


「よっこらせっと」


 ジーンズと白いTシャツの上に黒のジャケットを重ねた彼女が後ろに股がった。


「ノーヘル、ダメ絶対」


「別にいいじゃないか」


「ダメだ。捕まったらどこにも行けないぞ」


 彼女は渋々といった感じでヘルメットつけた。「顔に風を受ける感じが気持ちいいのに」と不満を漏らした彼女に続いて問いかける。


「どこに行く?」


「とりあえず、街の方がいいな」


「了解」


 スロットルを捻ると車体が前進し始める。薄暗いコンクリートの屋根を抜けると、青い空が視界を埋めつくした。図工の時間に嬉々として青と白の絵の具を混ぜて作ったそらいろをそのまま塗りたくったような光景だった。この空が続く限り、どこにだって行ける気がする。




 30分も走ると、人通りが忙しくなった。交通量は倍に増したように感じる。ひとまず、コンビニでおにぎりを買い、遅めの朝食を済ませた。店が並ぶ通りまで、カブを走らせる。平日にも関わらず、街は人で賑わっていた。それからの時間は短く感じた。小さな楽器店に寄って、彼女はギターを弾いた。バラードのような曲調だった。暗く切ないメロディに合わせて、彼女の歌声がうっすらと口から溢れ出していた。小さな声でリズムを確かめながら演奏する彼女はずっと悲しそうな瞳をしていた。サビにさしかかろうと言うところで「これ以上は、やめられなくなりそうだから」と言って演奏を止めた。






 一通り回り終わったところで、立ち去ろうとする。


「なあ、次はどこに――」


 彼女の方に振り向いて気づく。後ろに乗ったままどこかに夢中になっている。彼女の視線の方を見ると、一軒の花屋があった。ぼーっとしていた彼女の手を引いて店の中に入る。チューリップ、バラ、カーネーションと花に造詣が深くない俺でも知っているもの、道端で見かけたことはあっても名前を知らないものなどたくさんの花が店に並んでいた。普段花をじっくり眺める機会などなかったが、こうして見るとそのどれもがとても瑞々しく思えた。彼女はその中の大きな花弁を持ったピンクの花をじっと見つめていた。


「……」


「そちらの花、気に入って頂けましたか?」


 無言で見つめる彼女を気にかけてくれたのか若い女性の店員が声を掛けてきた。


「アザレアって言うんですよ」


「あざれあ?」


 名前も知らない花を彼女は食い入るように見つめていたようだ。


「花言葉は『恋の喜び』です。お2人にお似合いだと思いますよ。いかがですか?」


「いや、俺たちは別にそういう訳じゃ」


「そうでしたか……失礼しました」


 即答すると、彼女が一瞬だけ花から目を離してこちらを見た。花の色と比べるとひどく冷たく寂しそうな瞳をしていた。


「欲しいのか?」


 彼女の背中に問いかける。振り向かずに暫し悩むように沈黙した後、すっと立ち上がった。


「あたしに買われても、この花は喜んでくれないさ」


 そのまま店を出ていく。俺も少ししてその後を追った。




「良かったのか?」


「ああ、行こう」


「……分かった」


 カブを出す。空にはまだ日が高く昇っていた。






 街を抜け、車通りも減った道を走る。街への往路よりも、彼女が強くしがみついている気がした。背中かかる重みが彼女の存在を色濃く訴えかけていた。


 長い、長い道のりだった。終点に着いた。少し冷たい風が肌を撫でる。彼女がはしゃぐように手を取って歩き出す。二人で階段を降りていく。歩幅、リズムが自然と調和していく。次第に踏みしめる足の感触にふわっとしたものが混じっていく。最後の一段を降りると、足場は完全に砂で満たされていた。向こうには青い世界が広がっていた。裸足になって、波打ち際まで彼女に手を取られながら駆け出す。まだ春だからか海水は冷たく、人は誰もいない。彼女は濡れることも気にせず、海と戯れる。手ですくった水を空へと打ち上げた、寄せては引いていく波と競走した。海から上がったあとは砂浜に城を築き上げた。不器用な彼女の手で作られた城は、なんだか全体的に丸みを帯びていて、彼女と一緒に思わず笑ってしまった。いつもはクールな彼女が見たこともないような無邪気な顔で笑っていた。彼女は城作りに飽きたらしく、子供みたいにペットボトルに砂を詰め始めた。サラサラとした砂をすくってはゆっくり飲み口の部分から通していく。中が砂で満たされるとキャップを閉める。砂が混じって、ジャリジャリと音立てて、不規則に止まりながらもキャップは完全に閉まった。少し休憩しようと、砂浜に横になる。空が視界いっぱいに広がった。少しして、彼女が隣に来る。息遣いだけでなく鼓動すらも伝わってきそうだ。意識もせずに手が結びつく。指が絡められて、より強く結ばれる。


「空……綺麗だな」


「ああ」


「さっきの花も綺麗だった」


「買えばよかったのに」


「いや、良かったんだ。今あたしが持ってても仕方がない。旅の荷物も少ない方がいいだろう」


 少し寂しそうな声色だった。


「なあ」


「どうした?」


「……ありがとう」


「何が?」


「……ごめん」


「だから何が?」


「……」


 それ以上の会話はなかった。お礼の言葉の意図は何となく掴めた。ただ、謝罪の言葉は何のためのものか分からなかった。今まで蓄積された思い出の中の彼女が答えらしきものを教えてくれたが、それを受け入れたくはなかった。ゆっくりと流れる雲を眺めながら考えていた。静かに二人の時間が過ぎていった。




 高く昇っていた日はすっかりと暖かみを帯びた色になり、水平線へと向かっていた。青かった空はオレンジ色へと姿を変えている。どれだけ長い時間横になっていたんだろう。


「……そろそろ行こう」


 彼女が体を起こした。繋いだ手はそのままに、俺も続いた。


「もう行くのか?」


「ああ、あんまり暗くなると正直怖い」


「……わかった」


 二人で水平線に向かって歩き始める。ひんやりとした砂を踏みしめる。徐々に小さな石が混じり始め、やがて足場は湿った小石だけになった。両足が海水に浸かる。腰の辺りまで浸かると体が重くなった。体温が溶け出ていく。足が根を張っているように進むことを拒み始める。寒い。ふと手を握りしめる力が強くなった。

 彼女は笑っていた。先程と同じような無邪気な顔で微笑んでいた。もう戻れないのだ。この道は環状線にはなっていない。これで終着点なのだと胸が痛くなった。同じように彼女の手をより強く握りしめる。息がうまく吸えなくなる。この感情は高揚感なのか恐怖なのか分からなかった。目を瞑り、手から伝わる温もりに意識を傾けながら、その時を待った。









































 ギラギラとした日がこちらを見て嘲笑っていた。慣れない病衣が汗を吸い込んで不快だ。踏んでは足を吸い込んでいく砂が不快だ。踏みしめる度にサンダルの中に入ってくる小石が不快だ。こんな不快な所は早く去らなくては。海水が足を濡らして、そこまでで膝を折った。


「一人で……できるわけないだろ」


 枯れきったはずの瞳から涙が出た。頬を伝って、海水に零れ落ちた。抗議の意を込めて、病衣のポッケから出した中身の詰まったペットボトルを投げ飛ばした。白い砂と真っ赤なアザレアが中で混ざり合うのが見えて、それきりだった。音を立てて、深い青の中に吸い込まれて戻ってこなかった。

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