第6話「過去の悲劇①」
――天馬がまだ六歳の頃。
母の態度が豹変したのは父親の
「ごめんなさい、ごめんなさいお母さん」
「あんたのせいで! あんたのせいで私は!!」
母親は激昂しながら天馬を殴りつける。そこに親子の情は欠片も存在しない。
手加減のない暴力は何度も、何度も何度も続き、いくら天馬が謝ろうが母親の手は一切緩むことは無い。
母親の暴力に天馬は為す術もなく、できることといえば泣きながらひたすら謝り続けることだった。
そんな日々が一日、また一日と過ぎていく内にいつしか天馬の心と体は壊れていた。
どんなに殴られても蹴られても痛みを感じなくなり、涙も枯れ果ててしまったように流せなくなる。
家に閉じ込められ暴力が日常的になってからしばらく経ったある日、何故かその日は一度も暴力を振るわれなかった。
ようやく許してもらえたのかと思った天馬だったのだが、その結末は最悪の形で迎えることになる。
母は椅子の上に立って何処かに縛り付けていたロープを首に巻き付けると、天馬に一言だけ残して椅子から飛び降りてしまう。
「ダメな母親でごめんね、天馬」
母は天馬の目の前で首を吊って命を絶った。
その行動の意味が理解できなかった天馬は、冷たくなった母親の身体に向かって繰り返し語り掛ける。
「ごめんなさい、お母さん」
「お母さん、お腹空いたよ……」
それから三日間、天馬は一切休むことなく壊れたロボットのようにその言葉を繰り返し続けた。
そしてある時、ふと気づいてしまう。
死という逃れようのない現実を、天馬は幼い子供ながら明確に理解してしまったのだ。
すると同時に枯れ果てたと思われた涙が濁流のように溢れ出し、感じなくなっていたはずの痛みが、まるで心臓を握り潰すような激痛となって天馬を襲った。
「うぐあああああああああぁぁ!!」
その後の顛末は天馬自身あまり覚えてはいない。
絶望に心を覆われた天馬を見かねてか、空吾は今の義母である愛子と再婚する。愛子は天馬の事情を知って尚、愛情を持って接し続けた。
しかし天馬にとっては愛子の存在はどうでもよかった。いや、愛子だけでなく何もかもがどうでもよかったのだ。
それから数年後に妹の由美奈が生まれることになる。
由美奈と初めて会ったのは出産を終えた愛子が家に帰ってきた時のこと。
愛子が妊娠していたことは空吾から知らされていたが、天馬が病院に足を運ぶことは一度もなかった。
天馬の元へやって来た愛子に抱かれる由美奈は、思わず手で目を覆いたくなるほどの輝きを放っていた。それは錯覚などではなく、天馬の目には確かにそう見えたのだ。
そしてその小さな身体の背には一つの芸術と呼べるほどに美しい白銀の翼が生えていた。
それは正に天に愛されたような存在だった。
天馬は愛子が妊娠したと聞いたその時から何度も巡らせた思いがある。
血の繋がった兄妹ならば自分と同じ存在なのではないか?
本当の意味で理解できる存在。天馬にとってそれはたった一つの希望。
しかし現実は残酷なものだ。天に見放されるどころか、自分とは対極とも言える天に愛された存在だったのだから。
全てを否定された天馬は生まれて間もない赤子に向けて止めどなく溢れ出てきた感情をぶつけた。
「何で俺だけ!」
「何でお前が!」
「どうして俺じゃない!」
「どうしてお前なんだ!」
醜態を晒す天馬を純真無垢な瞳で見つめる由美奈は、あどけない笑みを浮かべて嬉しそうにキャッキャッとはしゃぎ出す。
その時の天馬は由美奈に対して殺意すら覚えるほどに、恨み、憎しみ、嫉妬、怒り、といった悪意が止めどなく湧き上がっていた。
しかし誰よりも命の尊さを理解していた天馬だからこそ、愚かな行動に出る前に踏み止まることができたのだろう。
それから天馬は頑なに由美奈との関係を持つことを避けた。
由美奈を目にすることを避け、声を掛けることもせず、妹として認めることを否定してきた。
それは由美奈に対する悪感情よりも、由美奈を見れば見るほどに自分の惨めたる様を痛感させられることに耐えられなかったからだ。
そんな天馬の気持ちとは裏腹に由美奈はなぜか天馬に懐き、どれだけぞんざいに扱おうとも近寄ってきた。
更に月日が経過して天馬が十四歳になった頃、空吾が事故でこの世を去った。
仕事現場で発生した事故の際、現場にいた同僚を庇って大怪我を負ってしまったらしい。誰よりも優しかった空吾らしい最後と言えなくはないが、それで
自分が死んでしまっては意味がない。
空吾は天馬にとって唯一の居場所だった。
学校で虐められた時も、母親が死んだ時も、どんなに苦しくても、どんなに悲しくても、空吾の傍にいればそれが和らいだ。天馬にとって空吾は自分という存在を認めてくれる心の拠り所だった。
しかしその父親はもうこの世にはいない。
母親が死に、父親も死んだ。
天馬が生きる意味を見失うには十分な理由だろう。天馬は母親と同じ決断をする。
その当時の出来事を天馬は生涯忘れることはない。
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