第9話 十五夜
「そういや今日は十五夜か」
「十五夜?ーーああ、中秋の名月でしたっけ」
仕事帰りでぶらぶら歩いている最中、俺は月を見つけて唐突に思い出した。
隣ですみちゃんも、今思い出したような顔で月を見上げている。
「今年は満月だな」
「珍しいですね」
すみちゃんの足がふと止まる。その目は月に向いていた。月をしばらく見たいのかと、俺も足を止める。深夜の道は人気も無く、空気が静かだ。遮るものも無く、月光が緩やかに俺たちに注いでいる。無言でただじっと、すみちゃんは満月を見上げたまま。いつもの黒く澄んだ瞳は、今は不思議な色に光っている。上手く言えんが、何かおかしいな。再び満月を見上げる。あ、そうか。
「桂男か」
俺はすみちゃんの背後に回り、その両目を手で塞いだ。
「戻れ、すみちゃん。月見は終わりだ」
耳元で囁くと、びくっと肩が跳ねた。俺も手を外して横に立つ。すみちゃんが、不思議そうに俺を見ている。いつものすみちゃんに戻っていた。
「
「随分熱心に月見してたな」
「ええと、綺麗だろ?って知らない声がして、その後はあんまり覚えてなくて……ずっと繰り返し同じことを言われてたんですけど……榊さんの戻れ、って声がはっきり聞こえて。榊さんだ、って思ったら、今なんですけど……」
まともに月見も許されないすみちゃんに涙が出そうになる。怪異にちょっかい出される体質は本当に相当だ。
「桂男だよ、多分。満月だがな。知ってるか?」
「え。あの、月に居るっていう妖怪ですよね」
「そうそう」
話が早くて助かる。
「満月じゃない月を長く見てると招かれて、死ぬんでしたっけ」
「そうらしいな。でもまあ、今回は死なんだろ。満月だし」
笑って言えば、すみちゃんは複雑な顔をしている。ふむ。不安なまま帰すのもあれだな。何かまだ気配するし。
「ちょっと寄り道するか」
「寄り道?」
多少いつものルートを逸れて、すみちゃんを近くの神社の敷地内にある池に連れて行った。
神社の敷地内だが、門の外にあるからいつでも入れる。
「こんなところに池があったんですね」
「おうよ。
「月見用?」
大きくも深くも無いが、落ちない程度まで近付き、水面を示す。
「ほれ、月だ」
「わ……!」
蒼い静かな水面に、空から移したような月が照っている。すみちゃんは月を見下ろして、凄い、と小さく呟いた。感情が分かりにくいのが常だが、感動してるのが分かる。
「神域で観る月だ。すみちゃんを守ってくれるだろ。同じ月でも」
すみちゃんは月から俺へと目線を移す。
黒い瞳に、月の光を宿していた。神域だってのに妖しい気配が漂っている。……やっぱりまだ憑いてんのかよ。ーー仕方ない。
俺はすみちゃんに近付き、彼女の顎をくいと持ち上げて俺の目へ向かせる。すみちゃんの瞳の中の月に宣言した。
「この
“ーーちっ”
耳元で男の舌打ちが聞こえた。舌打ちしたいのはこっちだっつーの。
だが、神域にいることも手伝って、ようやく諦めたらしい。月は消え、妖しい気配も失せた。
すみちゃんの顎から手を離そうとして、掴まれる。
「……榊さん」
「何よ」
まだ何か憑いてんのか。
すみちゃんが何も言わず、動かないから俺も動けない。じっと、俺の目を見上げてくる。黒いいつもの目は澄んでいて、今は微かな月光も相まって宝石のようにも見えた。
月より綺麗じゃん、などと暢気に構えてたら急に口を開いた。
「……ありがとうございます」
「顔触ったの怒ってんの?」
「怒ってません。桂男がまだ居たの、途中から分かったので」
「あ、そ。じゃあ、そろそろ手離してくれても良いんじゃない?」
すみちゃんはハッとした顔であっさり手を離した。
「どうした」
「すみません。間近で見たら、榊さんの目が月より綺麗に見えたので、見入ってたみたいです」
ありゃま。意外な答えに一瞬返せずにいると、すみちゃんはすいと目を逸した。
「あー……すみません……変な意味とかでなく」
へこみながら言い訳しているすみちゃんを見たら可笑しくなって笑っていた。本当、愉快な娘。
「怒らねぇよ、そんなことで。ーー大丈夫そうならそろそろ帰るか」
「……ありがとうございます。そうしましょう」
いつものルートに戻る。静かな夜は変わらずだ。並んで歩きながら、今夜の感想を述べる。
「すみちゃんは大変だなあ。明日からもう少し優しくするわ」
「半笑いで言われても、全然信用出来ないんですが」
いつもの調子で睨むすみちゃん。俺は頭上にある月に見せつけるように、意味もなく笑った。
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