第3話 描き人知らずの絵
二十四時間営業ではない、コンビニ・佐和商店の話。
「おはようございまーす」
私・
「--水の匂い?」
河原にいるような錯覚を覚える程、強烈な水の匂いが店内に充満している。
何だこれ。
「はよーっす、すみちゃん」
「おはようございます、芽吹さん」
カウンターの向こうには、
「……ええと、何か水漏れでもありました?」
私の問いに、天我老君は首を傾げる。
「いえ?水道管は壊れてませんし、今日はそんな大掛かりな掃除もしていませんから、最低限の水しか使ってませんよ?」
おおう、完璧な説明をありがとう。というか、あなたは分からないのね、この匂い。
黙っていた榊さんが、にっと意味深に笑ったのを、私は見逃さなかった。
「まあ、とにかく着替えて、早く天我を上げてやれ」
「……はい」
こういう風に彼が笑う時、というのは大体ろくなことが無い。
何かあったんだろうか。
釈然としないが、私はさっさと事務所で制服の上着を着てカウンターに戻る。
相変わらずさして客が入っていないだとか、割り箸が切れそうだとか、いつも通りの引継ぎを受けた。
「さっき、芽吹さん水がどうこう言ってましたけど、ちょっと変なんですよね。店内、特に何も無いのに、川のせせらぎみたいな音がする時があるんですよ」
「へ、へえぇ……」
顔が引きつる。
何だ、やっぱり分かってんじゃん。それでも天我老君は、気のせいですよね、と苦笑いを浮かべてさっさと帰ってしまった。
二人きりになった店内。水の匂いが一層濃くなった気がした。
「どういうことなんです?これ。」
私は、榊さんに詰め寄る。
榊さんは変わらず笑っていた。
「店長がな、倉庫に掛軸を一本置いて行ったんだよ」
「
「そう。お祖父さんへの届け物だったらしいんだが、生憎旅行中でな。此処に置いて行ったんだ」
「その掛軸、ひょっとして、」
「自分の目で確かめてみるか?」
笑う榊さんに連れられて、私は倉庫に入る。
いつもより、より一層空気がひんやりしていた。
なるべく棚の方は見ずに、榊さんの背中に意識を集中する。榊さんは、棚とは反対方向の壁を指差す。
そこには、床の間に飾ってあるような掛軸が一本、掛かっていた。
墨絵で色は無く、一目で川の絵だと分かる。
きっと清流だったのだろう、繊細で美しい水の姿が描かれていた。
思わず近寄ると、水の匂いが強烈になる。これが……源だったのか。
「……何で掛けてるんです?」
「最初は箱に入れてたんだけどさ。店長が帰ったら、勝手に箱の蓋が開いてな。何度閉めても繰り返すから、面倒になって腹が立ったから掛けてやったんだ。そしたら水の匂いが店に出始めた。まあ、勝手に蓋が開く現象見るより、他人に分からない匂いが広がってる現象の方がまだマシだろ?」
どっちもどっちだと思う。
吉瑞さんの家って、一体どうなっているんだろう。
「いつまでこのままなんですか?」
「明日には店長が家に持って帰るとよ」
「……そうですか」
私はもう一度、掛軸を正視した。
上から下へと流れる見事な清流。
私はふと気付いて、絵を見ながら榊さんに尋ねる。
「……こういうのって、作者の名前が入っているものじゃないんですか?何で、これーー」
言いながら、私は絶句した。
後ろで、榊さんが息を呑む気配が伝わって来る。
掛軸の紙から、清水がこんこんと溢れて来たのだ。それはあっという間に、私たちごと倉庫を呑み込む。
透明過ぎて、水が溢れたのが幻覚かと思った。
死ぬ、と思ったけど息が出来る。ふわりと、身体が床から数センチ上に浮かんでいた。
「……ようやっと、分かってもらえた」
不意に聞こえた声に、私は掛軸を見た。
掛軸の前に、腰の曲がった仙人みたいな白い髭のお爺さんが立っている。
同じ色の眉毛も伸び放題で、目が隠れてしまっていた。マルチーズみたい。ーー違うか。
「あのー……貴方は?」
「わしゃあ、この絵を描いたもんじゃ。死の間際に描き上げたこの絵に、己の号を入れ忘れてな……それのみが心残りじゃった」
号。ペンネームか。
お爺さんは心持ちしょんぼりした顔で、自分の手を見つめる。
「しかし、肉体の無い身体ではもう筆は持てぬ。絵と一つになってしまった後も、悔しや悲しやと思うている内に、あちこちを転々としておった」
「なるほど。長い旅だった訳だ」
私と榊さんは、此処が水の中ということも忘れて、うんうんと頷く。
そこへ、遠くの方から、朧に店のドアが開く音がした。
お客さんかと思ったら、何と吉瑞さんだ。
「さーかーきー!菫ちゃんまで居ないの?」
足音が倉庫まで迫って来る。
うーん、下手なホラーより怖い状況だ。扉の向こうは貯水槽みたくなってるんだから。
榊さんが一度扉をちら見して、お爺さんを見る。
「で?俺たちに何を望む?」
「名を書いてくれ。絵の左下じゃ。どのような形でも構わぬ」
「名は?」
「大河の河に、人。
榊さんと私が何か言う前に、お爺さん、否、河人さんは消えた。
水が凄い勢いで、紙に戻って行く。渦に呑まれそうになった身体を、榊さんが抱き寄せてくれた。
何事も無い倉庫に戻った瞬間、扉が開く。
「二人とも!何してんの!?全身びしょ濡れにして」
「……オメーのせいだ、オメーの!」
榊さんが面倒くさそうに、濡れて滴をしたたらせる前髪を掻き上げた瞬間、私はくしゃみをした。
その後、吉瑞さんのお祖父さんが、絵にちゃんと名前を書いてくれた。達筆で素敵な字だった。
「あんま変なもん置いてくなよ。お前の店だけど店番は他人なんだぞ」
いつもの佐和商店。
夜になって、吉瑞さんが差し入れを持って遊びに来た。自分の店で、店長なのに。
そんな吉瑞さんに、榊さんはこれでもかと、文句を言い募る。
「変なもんって知らなかったんだから、不可抗力ですー!」
対する吉瑞さんも、悪びれもせず言い放つ。
そりゃそうだろう。知らないし、感じないから持っていられたんだろうし。
「かー……!これだもんなぁ。すみちゃんも何か言ってやれ。全身びしょ濡れなんて罰ゲーム受けたんだからな」
「え。私は別に。ーー此処で解決出来たんですから、良いじゃないですか。下手に悪いやつになられたら面倒です」
「菫ちゃん、超大人ー。おっさんと大違いー!」
「おっさん言うな!すみちゃん、お人好しが過ぎるぜー?」
「そうですかね?」
こうして、今日も佐和商店の夜は更けて行くのだ。
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