第2話 狭間の旅館


「随分とすごい喧噪だ」

「ええ、まあ、この旅館を求めて遠路遥々と人が来るほどには、客足の絶えない旅館ですからね」


 俺も小舟のオールをもって漕いでいたのもあって、そう時間もかからずに目的の旅館――狭間の旅館〈竜宮〉にたどり着くことができた。


 旅館に近づいた俺たちを一足早く出迎えてくれたのが、人々の喧騒である。

 なにやら祭り囃子のような調子のいい笛の根が聞こえてきたかと思えば、飲めや踊れやといった調子の音頭が俺の耳を楽しませる。


 続いて漂ってきたのはツンと鼻をつく硫黄のような香りだ。温泉でも湧いているのかと、男――サトヤというらしい――が、丁寧にこの旅館で入ることのできる大浴場の話を教えてくれた。


 さらに船を漕いで近づいてみれば、視覚に訴えかける煌びやかなら行燈の光がまばゆく光る、どこか和を感じさせる旅館が騒がしくそこに鎮座していた。


 そうして遠巻きに旅館の喧騒を眺めていると、いつの間にか俺の乗る小舟は船着き場へと到着していた。


「ああ、お客人。少しお待ちを。いま、案内のものがくるんでね」

「お、おう。そうか……あ、そういえば料金だが……」

「それは受け取らない方針でございますから、出す必要ありやせん。そもそも、あちらの金はここでは使えないですから」


 金を受け取らないサトヤの言葉に、俺は日本円が使えない程に遠くの国に来てしまったのかと思った。

 そもそも、俺が昼寝に興じる短時間にどことも知れない霧の奥深くにどうやって連れてきたのかということに疑問が残るが、俺の胸の内に燻る冒険魂のことを考えれば些細な問題だ。


「ああ、ほら。案内が来ましたよ」


 一度出した財布を懐にいそいそしまっていると、案内の人間がやってきたとサトヤが俺の後ろを指さした。その言葉に従って、俺は後ろからてってとこちらに近づいてくる足音の方へと目を向けてみたとき、俺は目を疑った。


「こんにちは! サトヤさんのお連れということは新規のお客様ですよね。それではこちらに……あれ、お客様。どうされましたか?」

「……え、いや……ちょっと、すまん……」


 案内役に現れたのは、おそらくは旅館の制服であろう赤茶色の衣服に身を包んだ少女。

 しかし、俺はその少女の言葉に返答をできずに、ボロボロと零れ落ちる涙を止めることができなかった。


 なぜならば――


「愛理……?」

「あ、はい。従業員見習いのアイリと申します! ようこそ、狭間の旅館〈竜宮〉へ!」

「うん……そうか……そうかぁ」


 そこにいたのは、八年も前にどこかへと消えてしまった幼馴染であった――



 ◇~~~◇



「ご新規さんは、みな一度この竜宮の主に顔を通すことになってるんですよ」

「へ、へー……そうなのか……」


 愛理に似た顔をしたアイリと名乗る少女が俺の横を歩いている。それだけで泣きそうになってしまうが、大の大人が大泣きするのはさすがに恥ずかしいので頑張って涙をこらえた。


 そんな俺の様子を不思議そうに見てくる愛理――もといアイリの顔がちらちらと俺の視界に移るたびに、どこか不思議な感覚に陥ってしまう。


 ……しかし、だ。


「お客様お客様」

「なんだ?」

「先ほど、自己紹介前に私の名前を知っていましたけど、もしかしてサトヤさんから私の話を聞きました?」

「あ、うん。サトヤさんから話を聞いてね」


 どうやら、アイリは俺のことに気づいていないようだ。まあ、それもそうだ。八年も顔を合わせていなければ、人の顔なんておぼろげになる。それに、俺とアイリが最後に顔を合わせたのは高校生の時だ。

 あれから八年経って萎びたサラリーマンとなった俺と、思春期真っ盛りの男子高校生の俺を八年もの時間をおいて同一人物だと見分けるのは至難の業だ。


 そもそも、彼女が本当に俺の知る愛理なのかという話に疑問すら感じてしまい始める始末だ。


 ただ、


「……」

「アイリ……さん? そんなに露店の菓子を見つめてどうしたんだ?」

「あ、す、すいません!! あそこのお店のパンケーキはかなり絶品でして……うひひ、思わずよだれが……あ、見てくださいあのお菓子! 見たことない色してますよ! ぜひとも一口食べてみたいですねぇ……」


 この食への執着。この三大欲求へと忠実な姿は、間違いなく俺の知る愛理そのものだ。

 この世にはよく似ている人間が三人は居るというが、それはあくまで顔の話。


 性格まで似ているとなると、もう本人としか思えない。

 ただ……どうしてこいつはあの時の姿のままなのか。アイリの幼さの残る顔立ちに、俺は愛理とアイリを完全に結びつけることができずにいた。


「あ、こっちです。もうすぐ着きますよ」

「随分と長い階段だな」


 旅館の船着場から歩いて数十分。そこから旅館の本館と思われる建物の中に入ってから、さらに長い長い廊下と長い長い階段を歩かされる。

 ぶつくさとした文句が出てしまうぐらいにはあるかされた俺だったが、彼女は丁寧にこの旅館のことを説明してくれた。


「まあ、この旅館もいろんなお客様が来て、時代がたつにつれ改築増築が繰り返されて、今や一つの町といった方が正しいぐらいの広さですからね。主様が住む本館も、それ相応の大きさですよ」

「とはいえ、もう少しこう、エレベーターとかないのかよ……」

「ありますよ?」

「あるんかい!?」


 ただ、エレベーターがあるのなら先に行ってほしかった。


「ともかく、主様の部屋に到着です! もう連絡は入っているので、中にお入りください!」


 どうやら、もう彼女の言う旅館の主の部屋に到着してしまったらしい。少しばかりの緊張が俺の体をしびれさせるが、そんなことお構いなしにアイリは主の部屋の扉を開けてしまった。


「……ようこそ、狭間の旅館で」


 扉の先にいたのは、見上げるほど巨大な龍だった。

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