第3話 竜宮の主
ほのかに香る木のにおい。遠くから聞こえる喧噪。
少しだけ滑る床に気を付けながら、シャッシャと俺はモップ片手に床を掃除していた。
「ナオ。これ、どこに持っていったらいい?」
「あのなぁ、ミィ。新人の俺に聞いてどうするんだよ」
「……たしかに。じゃあ、アイリが来るまでどっか置いとく」
真っ赤な髪の同僚ミィが、そそくさと温泉の備品の置き場所を俺に聞いてきたが、何の成果も得られないとわかるとくるりと方向を転換して、いそいそとまた自分の仕事を始めた。
そんな彼女の小さな背中を見て、俺はモップを杖のようにして体重を預けながら、大きなため息を吐くのだった。
「なにやってんだろ、俺」
なにゆえに俺が温泉の掃除という雑用をしているのか。
それは、二時間ほど前のことだった――
◇~~~◇
旅館の主の扉を開いた先にいたのは、あまりにも巨大な龍であった。
主の部屋というが、この部屋は部屋というよりもバルコニーのように一面の壁と天井の一部が外へとつながっており、開けた景色が奥に見える。
奥に見えるのは、切り立った崖の上とその崖を落ちる滝。そんな滝から蛇のように体を伸ばして、このバルコニー……もとい執務室に顔を出しているのが、この狭間の旅館の主なのだという。
あまりにも現実離れした光景だったが、いつの間にか知らない湖面を漂っていたり、八年前に失踪した幼馴染にあったりして驚き疲れている。この程度のことならば、もう驚かない――
『……ようこそ、狭間の旅館で』
きぇえええええしゃべったぁああああああ!!!!
……ごほん。
い、イヤー別にぜーんぜん驚いてないですよ? ほんと。
まあ、そんなことはどうでもいい。というか、龍ってしゃべるのか。
『あ、すまんな。驚かせてしまったみたいだ』
「主様のその姿は威圧的すぎるよ! ほら、いつもの執務用の分体だしなって」
どうやら、俺の驚愕は顔に出ていたようで、驚かせてしまったことを詫びる龍という面白いものを見てしまった。
そして、アイリはそのことを責めるように龍にしゃべっている。仮にも主と呼ぶ相手にそのしゃべり方はいかがなものなのだろう? と思ったが、彼らの関係を知らない俺が口を出すものではないだろう。
『確かに、そちらのほうが話しやすいか。客人、少し失礼する』
「……?」
ともかくだ。申し訳なさそうにする龍は、俺に何か断りを入れてきた。これから一体何が始まるの――
『うげー……』
「吐いた!?」
何を思ったのか、この龍げろ吐きやがった!!?
いや、腹の調子がよくないのならばそう言ってくれればいいものを。こんな日にも職場対応するなど、前の俺の会社の上司に見せてやりたいものだ……あれ?
「これ疲れるんだよなぁ……失礼客人、汚いところをお見せした」
「……え、人?」
滝のように龍の立派な口から吐き出された吐しゃ物の中から、人が出てきた。その事実に俺が目を疑っていると、俺のかしげた首に合わせて、彼女もまたこてんと首を傾げた。
「人ではないな。我は龍。この狭間の旅館、竜宮の主である」
吐しゃ物の中から登場という何とも汚物に塗れた彼女であったが、そんな状態でも俺が言葉を失ってしまうほどの美しさを彼女は備えていた。
流水のように透き通った空色の髪を腰まで伸ばし、龍を思わせる角が登頂から生えている以外は、おおむね人。しかし、その背丈は女性の平均身長から逸脱した大きさで、概算200センチは超えているであろう体躯であり、その体にははっきりくっきりと女性らしい丸みを帯びた凹凸がグラマラスに装備されていた。
きりりと切れ長の釣り目ににらまれれば、俺はカエルのように委縮してしまうが……その瞳の中にある穏やかな優しい雰囲気を感じたとき、その緊張は親しみへと変わった。
「え、えと……どうも、周藤那尾といいます」
「うむうむ。それでは、客人はどちらが目的で来たのだ?」
「……はい?」
どちらかと聞かれ、俺の頭に疑問符が立った。
そんな俺の態度に、すぐさま龍は俺が何も知らない一般人であることに気づいた様子。
「む、もしかして迷い人か。ならば説明しなくてはならないな」
「迷い人?」
「客人みたいな世界の狭間に目的があってきたわけではない者のことを、我々は迷い人と呼んでいるのだ」
「ま、まあ確かに、迷い込んだという方が正しいですね」
サトヤさんに連れられてここに来たんだが、まあ迷い込んだといっても間違いはないだろう。
ともかく、そんな俺は迷い人と呼ばれるらしい。
「さて、この旅館に来た者には、我から直々にとあることを聞くのだ。……住むか、過ごすか。おぬしはどちらだ?」
住むか過ごすか。そう聞かれてたが、俺にはその二つに何の違いがあるかわからなかった。
そのため、さらに分裂した疑問符が頭の上で踊りだしたのだが……俺の脇腹を小突くアイリが、龍の問いかけの意味を教えてくれた。
「過ごすというのは、この旅館の客として一時の安寧を過ごすという意味です」
「なるほどなるほど……じゃあ、住むというのは?」
「この旅館に住み、働くという意味ですよ」
つまり、この龍は俺にこの旅館の従者になるか、それともこの旅館の客として一時を過ごすかを聞いてきたというわけか……。
突然の出来事に驚きっぱなしの俺は、ちらりとアイリの顔を見た。
アイリは、従業員として働いている。……あれだけ探したアイリはここにいる。
なら――
「ここに住みます」
「いいのか? 元の世界には戻れないが」
「……日本に心残りはありますが……それでも、俺はここに住みたいです」
「いい心意気だ。じゃあ、アイリ。こいつを新人として登録する。教育係についてやれ」
「あ……はい!」
こうして、俺の旅館の従業員見習いとしての生活は始まったのだった。
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