狭間の旅館の暮らし方

日野球磨

狭間の旅館〈竜宮〉

序章〈世にも美しき世界の狭間〉

第1話 神隠し


 神隠しというものに出くわしたのは、俺がまだ高校生だった時の話だ。事情を話せば長くなるが……まあ、そこは割愛して。


 学校の通学路の帰り道。川沿いの雑木林の横を友達と歩いていた時のことだった。ふと、俺は後ろを見た。


 すると、消えていたのだ。友達が。十年以上の付き合いだった、幼馴染が。


 だらだらと文句を垂れることに定評があり、帰り道での買い食いを欠かしたことがない、俺の言葉をもってして堕落の化身とまで言わしてめた幼馴染が。


 太陽のように笑い、俺の手を引いてどんなところにでも行ってしまう頼もしい幼馴染が。


 それから……それから――


「なーにやってんだろうな。俺は」


 公園にあるベンチの上で寝ていた俺は、今しがた見た昔の夢にたまりにたまった不安を吐き出すように大きなため息を吐いた。


 初夏の太陽の下、俺は夢を見ていた。

 ふと目を離したすきに、好きだった幼馴染が消えてしまったあの時の夢を。


 まるで、最初からそこにいなくなってしまったかのように。

 ぽっかりと空いた俺の隣は、あれからずっと埋まっていない。


 周藤すどう那尾なおの心は、穴の開いたバケツのように何にも満たされないままだった。気が付けばもう二十四歳になっていた。


 大学を出ていいところに就職できたかと思えば、上司も同僚も環境も何もかもが気に入らない場所だった。それでも俺は二年耐えて、やっとの思いで気に入らない上司に捨て台詞を吐いて辞表を叩きつけてきたばかりの午前十一時。


 スーツ姿で見知った街並みを徘徊すること数時間。迷いはなかったとはいえ、なぜあんなことをしてしまったのかと猪突猛進な自分のさがを恨めしく思い、五里霧中な未来に抱えた不安から逃げるように、俺はいつの間にか故郷の土を踏んでいた。


 もともと実家からはそう離れた職場ではなかったため、電車を乗り継げばそこまで時間がかからずに来ることができる。そのためか、俺は無意識の郷愁に手を引かれて、帰ってきてしまった。


 とはいえ、会社を辞めてきたと言って両親に顔を合わせに行くのは嫌だった。


 そんなわがままばかりが募り、あてもなく懐かしい場所を巡っては思い出に浸っていると――俺は、幼馴染がいなくなった場所に立っていた。


 八年前よりも少し勢力が増した雑木林の隙間を縫うようにして地面を照らす木漏れ日の道。その向かい側にははさらさらと舗装された川が流れており、昔は俺とあいつは毎日のようにこの道を歩いていた。


 今はつぶれてしまったが、この先にあいつのお気に入りの駄菓子屋があったんだ。あいつはいつも、明日世界が終わるような表情でこの道を歩いてから、駄菓子屋が見えてくればそんな過程をすべてどこかへと放り投げたような笑顔で店の方へとかけていった。


 随分と懐かしく感じる思い出。


 ……あの神隠しから、あいつは帰ってきていない。


 もちろん俺はひたすらに探したが、ついに見つかることはなかった。


 俺は、あいつのことが好きだった。今となってはもうわからないが……間違いなく、高校生だった俺は、あいつのことが好きだったんだ。


「あーあ……あんとき、あの気持ちを伝えてたらもうちょっとかわったんかなー……」


 過去を後悔するようにつぶやかれたその言葉は、泡のようにと空気の中へと溶けていく。


 あの恋心から、俺の人生が変わってしまったのは確かだ。


「どうせなら……もう一回、会いてぇよ……愛理」


 星宮ほしみや愛理あいり。それが、俺の好きだった幼馴染の名だ。

 もう会えない愛理に向かって、ここにはいない彼女に向かって、俺は泣くようにそうつぶやいた――


「お客さん。乗りますか?」

「……は?」


 そんな声が聞こえたのは、その時だった。


「なにやらお客さん、悩んでいる様子。袖振り合うも他生の縁といいますか、一期一会の縁といいますか。良ければ、あっしめの小舟にでも乗ってそよ風を受ければ、少しでも気分が変わるのではないかと思いましてね」

「そ、そうですか……」


 どうやら、見知らぬ人からも心配されるほどに俺の顔は酷かったようだ。


 ……にしても、だ。

 俺に話しかけてきた御仁ごじんはずいぶんと怪しい雰囲気を放っている男であった。

 町中の河川に人二人が乗れるぐらいの小舟を浮かべている人間が怪しくないわけもなく、俺の中に存在する不審者感知センサーがびんびんに音を立てていた。


 とはいえ、だ。


「少しだけなら」

「それはよかった。どうぞこちらへ」


 少し気分を変えたかったのは真実だし、俺にはこの男がそう危険な人物には見えなかった。


 それに、この川はそれなりの深さはあるものの、足はつく程度だ。いざとなれば逃げることもできるだろう。


「それでは、少し揺れますよ」


 小舟に乗り込めば、まだ暑くなりきらない初夏の陽気な風に出迎えられる。心地のいい風に気分を良くして、鼻歌交じりの男の声を聴いているうちに、うとうとと瞼が落ちていった――






「起きましたか、お客さん」

「……ここどこだよ」


 眠ってしまった過去の自分を殴りたくなった。

 目が覚めてみれば、俺を乗せた小舟はどことも知れぬ霧の立ち込める湖面の上を漂っていたのだから。


 半ば誘拐拉致のようにここへと連れてこられた俺が、船首に立つ男をにらんでみれば、男はぽりぽりと申し訳なさそうに頭をかいて言葉を返してきた。


「そうですねぇ……ここは世界の狭間。あっしはそこへの案内人。お客さんがあっしを見たってことは、ここに来る意味があるってことだったんですよ。きっと、お客さんも心のどこかでそれを望んでいたんでしょう」

「何をわけのわからないことを……」

「ほら、とにかく前を見てくださいよ。もうすぐ、目的の場所が見えてくるはずですから」

「……なんだあれ」


 突然の状況に男を責め立てていた俺だったが、男に言われるがままに顔を船の進行方向へとむけてみれば、まるで道のようにその方向にだけ霧が晴れており、遠くには随分と豪勢な旅館があったのだ。


「ありゃなんだ……?」

「狭間の旅館〈竜宮〉ですよ。さてと、それでは船を進めさせてもらいやす。あっしの仕事は、あの旅館にお客さんを届けることなので」

「なるようになる、か」


 当然だが、湖面に帰り道などなく、道中を寝ていた俺にはここがどこなのかすらわからない。

 ただ、そんなことよりも俺は目の前の旅館に心惹かれていた。


 多分、一時の気の迷いのせいだろう。気に入らない場所でため続けた二年間の鬱憤が、俺をどうにかしてしまったのだろう。


 それと、俺をここに連れてきた男から害意が感じられないのも理由の一つだ。


 どうせ、帰ったところで仕事もなければ当てもない。

 そんなわけで、少年のころの冒険心が赴くままに、俺は遠くに見ゆる旅館を目指して、小舟を漕ぐ手伝いをするのだった。

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