月は遠くから私を見続ける
磯の香りが台所に充満している。発泡スチロールのなかで海水に浸る帆立を一つ手に取り、もう一方の手でヘラを貝の隙間に滑り込ます。そのままの勢いで貝柱に先を突き当て、また押し込む。ぱかり、と観念したかのように帆立が開く。はい、降参。あとは煮るなり焼くなり好きにしてください。
「残念、君は刺身用なのだよ」
「誰と話しているんですか?」
「おおかた帆立に命乞いでもされたんだろう」
「帆立にも神様がいるんです?」
「お米にもいるくらいだし、帆立の神様もいるんじゃない。ほら、蜃気楼って昔は妖怪の仕業だって」
「あれはハマグリだ」
「まあ、帆立も夢幻を見せてくれますし」
「夢幻というか夢のような時間ね」
「貴様らにこいつらを食べる資格はない」
「手伝わぬものにも権利はない」
「洗ってるじゃないか! ちゃんと!」
殻剥きは20枚目ともなり、もはや慣れたものだ。私が貝からバラしたのをみこが塩水で洗い、あかりが可食部を分けていく。人手は欲しかったものの、あかりがここまで働いてくれるとは予想外だった。てっきり煙草と映画さえ与えておけば満足するものだと。
「もし私を除け者にして帆立を食べたことが後からわかったら、アサイラム作品耐久レースに全員強制参加ですからね」
うっかり私が親戚からの差し入れについて愚痴をこぼしたのをいいことに、あかりはその日の晩期は道具一式を担いでうちを訪ねてきた。七輪を背負ってドアを叩く女子大生なんてどこのコメディだ。
とはいえ助かった。私とみこだけでは積み上がった帆立を前に途方に暮れているだけだったろう。少し鑑賞したあと、そのままチョーク業者にでも持ち込んだかもしれない。
「でも空さん、家族と仲良かったんですね。これ、北海道の実家からですよね?」
「両親じゃなくて、叔父さん。あの人たちは私がどこで何してようが、興味ないよ。多分死んでも気づかないんじゃない?」
少し飽きたので、煙草に火をつける。途端、あかりとみこが睨んできた。『帆立に落としたら殺す』と視線で訴えかけてくる。
シンクから少し体を引いた。みこがザルから手を上げて私の横に並ぶ。
「叔父さんとは仲が良いのか?」
「昔から気にはかけてくれてたけど、これは多分罪滅ぼし」
「罪?」
「私を助けられなかったからとか思ってるんだよ、きっと」
煙に潮の香りが混ざる。身の剥がれた殻に、吸い殻を押し付けた。
「あ、それ洗って使ったらお洒落そうですね」
「いやだ、磯臭い」
「空の両親ってどんな人だったんだ?」
「あんま話したくない」
「親っていうのがどんなのか、気になるんだ。みこは話でしか知らないから」
「私から聞いても同じだし、そもそも私の場合は参考にならないよ」
「とりあえずお二人とも作業に戻ってもらえます?」
「そうだ、帆立の声が聞こえるなら彼らに聞けば良いじゃない」
「みーちゃん、聞こえるの?」
「いやまぁ、聞けないこともないんだが、聞きたくない」
「それはまたどうして?」
「良心の呵責が」
「そりゃ私なら必死で命乞いするわ」
先ほどの空想は、あながち間違いではなかったらしい。
「というよりもな」みこが深くため息をつく。「こいつらエリート志向みたいで、文句言ってくるんだ。フレンチにしてくれって」
「炭火焼きか刺身しか勝たねぇんだよぉ!」
あかりが叫ぶ。こいつ、酒持ってきてないよな?
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