第4話 日々
今までこの嗅覚にかんして得をしたことは一度もない。
小学校の時は……、思い出したくもない。
あの親睦会から一週間としない間に、俺は本社のしかも開発部門に異動になった。製造部のほうが居心地がよかったのに……などと思いながら今日もこの高層ビルをしたからにらみつける。
「なーにやってんの? 遅刻するよ?」
背後から香る花の匂い。彼女だ。高鳴る胸がそう告げる。
「おはようございます」テンプレートのような挨拶をするのは、彼女に対する俺の予防線。これ以上踏み込まないように。これ以上傷つかないように。
「そういえばこの間話された匂いの事なんだけど」
「はい、何かわかりましたか?」
「私特に石鹸とかそういうものはこだわりなくて、小金井君の言うような花の匂いはちょっとわからないかなぁ」
「そうですか。残念です」
「ていうか、その話口調どうにかならない? なんだかロボットと話をしてるみたい」
「すいません、つい」
「ひとまず初日なんだから、遅刻厳禁。ほら、行くよ」
よく晴れた空。焼けるほどの日差しは、ビルの窓に反射して俺たちに降り注ぐ。
沢渡さんはこんな強烈な日差しの中でも元気らしい。俺は沢渡さんの半歩後ろを歩く。風下に居れば、例え人混みの中でも空気の流れに匂いが運ばれてくる。
料理使われる様々なエッセンスを企画、開発するのがメインの仕事らしい。様々な薬品をテーブルに並べて、俺がそれらを嗅いでいく。各部署で選りすぐりの嗅覚の持ち主をかき集めてできたメンバーらしく、その誰もが各々の部屋に籠って吟味する。
俺もその一人になってしまったんだが……。
沢渡さんは会議や会合の時、俺がどうしても何かを口にしないといけない場面じゃない限りは企画部のほうに駆り出された。
移動して三日。俺はいつものように、自分の中にあるブラックボックスの中に手を入れ、あるかもしれない答えをひたすら探す。
ふと、背後に人影を感じる。同時に心が安らぐようなあの花の匂いが、目の前の化学薬品の中に混じる。きっと沢渡さんだ。どういうわけか俺に感づかれないようにそっと近寄ってくる。
「沢渡さんですか? どうしたんです? こんな時間に? サンプルの感想なら昨日のうちにメールで送ったはずですけど」
「完全に気配を消してきたのにどうして気づいたの!? まさか匂い!?」
回り込んで俺の目の前に顔を出す。表情は驚いた顔をしつつも、動きは軽い。
「化学薬品に埋もれる生活を始めても、沢渡さんの匂いだけなんですよ。唯一落ち着けるの。あ、これなんですよ。さっきたまたま見つけたんですけど」
久々の会話に、油断していたのかもしれない。俺は思わず彼女に自分が探していた彼女の匂いを渡してしまう。
「探してたの? 私の匂い……」
「あ、すいません。つい」
「ふーん」
「え、……いやじゃないんですか?」
「探すほど私が恋しかったのかって思うと少しだけ嬉しいの。あの人嫌いの小金井君とここまで仲良くなれるとはって」
「べ、別に探していたとかそういうんじゃなくて……。配合されてる物質が何かわかればもう沢渡さんに迷惑かけなくてもいいかなって。でも、結局似てるってだけで沢渡さんの匂いの様に甘さの中にメンソールのような爽快さがないんですよね」
「メンソールって……」
「気持ち悪かったですか? すいません」
「もう。何回謝ってるの? 気にしてないからいいよ。それよりさ、たまにはお昼でもどう? 時間的にもうすぐいいでしょ?」
「え、一緒にですか?」
「何よ。そんなにいやなの?」
「もっと胸張ってもいいと思うけどなぁ。その特異体質。こうして仕事にもつながっていることなんだし」
社内の食堂には無数の人盛りが……。沢渡さんがいてくれなかったら、きっとまた発作を発症しているに違いない。
「……昔、トラウマがありまして。あまりこの体質を歓迎できないというか……」
「そっか。だからあんまり人とかかわらないようにしてたんだ。私だったらほっとかないんだけどなぁ」
「こんな特殊な人間を、ですか?」
「そう。あ、今日小金井君かつ丼なの? 意外とこういう男っぽいもの食べるんだね」
「あまり自炊をしないもので……。体に悪いとは思っていてもどうしてもコンビニ頼ってしまうんです」
「ふーん。あ、そうだ。最近私料理にはまってるんだ。よかったら次の休みにでも来ない?」
「え!? 沢渡さんの家にですか?」
「大丈夫。製造部の方の男どもには黙っとくから。それにほら、今小金井君が作ってる香料の試験もできるでしょ?」
俺の意に反して、沢渡さんは俺との距離を縮めようとしてくる。
対して俺は、昔の忌々しい過去のせいで自分に嘘をついたままこの時間が楽しいだなんて呪いに勝てないでいた。
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