ずっと君の右側で
文月瑞姫
左の袖ボタンが外れていることに気が付いて、弄っていたストローを手放した。
目の前で泣いているクラスメイトの顔を、どう見て良いのか私には分からない。
故意とはいえ電車との接触をして、入院中の身。唯一見舞いに来た少女の名前を、どうにも思い出せずにいる。
思い出そうとしてもただ一人の名前しか浮かばなくて、もどかしかった。
……なんて嘘だ。本当は、彼以外の存在の記憶なんてこのまま返って来るなと思っていた。
ボタンを上手に留めると、マンゴージュースを喉に通した。夏の味だ。
***
「左耳が聞こえません」
高校一年生の頃だった。自己紹介の際にそう言った彼の、寂しげな目が忘れられなかった。
それからというもの、私はずっと彼を見ていた。通学の電車、授業中、移動教室に向かう道中、下校の支度をする最中、彼をずっと見ていた。
私に何かストーカーの癖があるわけではない。ただ、彼がずっと下ばかり見ているのが気になったのだ。道を歩く間も、誰かと話している間も、必ず数秒おきに足元を見る。まるで腕時計を確認するように、下を見ているのだ。
彼の病気に関することかと思って懸命に調べたこともある。でも、全くそれらしい情報はなかった。
「佐野君って、なんで下を見て歩くの」
好奇心に耐えかねて私はそう尋ねた。図書館に向かう道の、階段だったと思う。左、右と見まわしてから真後ろの私に気づくまで数秒の間があった。何かを言う前に、やはり私の足元を見てから口を開く。
「××さんだっけ」
「うん」
もう一度私の足元を見て、
「僕、人の心が分かるんだ」
と言った彼の目は墨汁が溶けた水みたいな色をしていて、とても特別な力を与えられたとは思えない悲しげな様相だった。
「どういうこと?」
「超能力みたいなものだよ。影を見ると、人の心が色で分かるんだ」
便利だねって言おうとして、止めた。安易なことを言うべきではないだろう。
「君は優しいんだね」
全部見透かしたように言われて、私はすっかり信じきった。もしかしたら、私が信じることすら分かっていて話したのかもしれない。
「そう、あまり良いものじゃないよ。人の心って本当に、見たくない色が多すぎる」
彼曰く、影に色が見えるらしい。単色ではなく、様々な色が入り混じった色。試しに図示してもらったが、点描を覚えたての子供が描いたような抽象画だった。
「これはどんな心なの?」
「帰りにアイスを食べたい色だね。ここは母親への嫌悪、ここにシャープペンの芯を買いたい気持ち」
彼は言語を覚えるように影の見方を覚えたと言う。物心が付く前からそれが見えていたから、どんなパターンがどんな感情と対応しているのか無意識に刷り込まれていった。
「きっと、その代わりに片耳が聞こえなくなったんだね。天は二物を与えないって言うから」
そんな冗談を言う彼は笑いながらも、やはり寂しそうな顔をしていた。夕日が沈み出した街の中で、影はずっと遠くまで伸びていく。
隠してもきっと、考えた時点で伝わっているだろう。敢えて率直に尋ねることにした。
「佐野君はどうして、そんな死にそうな顔をしているの」
「どうしてだろう。夜が近いからじゃないかな」
影が見えなくなる前に帰ろう。彼はそう言った。
以来、彼とはよく話すようになった。彼は音の方向が分からないらしいから、話し掛ける時は必ず右側から話したし、必ず肩を叩いた。
クラスメイトから揶揄されることもあったが、一度説明をしてしまえば次第に共通の文化となり、クラス全員が彼の肩を叩くようになった。
「佐野君、人気者じゃん」
帰り道、不機嫌そうに言った。きっと影を見るまでもなく、嫉妬心は見抜かれていたのだろう。彼は私の左手を取って、「これで良い?」なんて言った。二人の影が手で繋がっているのを見て、思わず笑ってしまった。
「どうして笑うのさ」
「影を見たら分かるんじゃない」
「分かるよ。僕も笑いそうだ」
そんな軽口をたたきながら、彼は笑う素振りすら見せてくれなかった。
私はそれが不満で、日が落ちたのを良いことに「ばーか」と呟いた。彼には聞こえないし、見えもしない。ほんの仕返しのつもり。
「佐野と付き合ってるの?」
次の日、クラスの誰かから聞かれた。
「付き合ってはいないよ。でも、好きだよ」
クラスメイトからの冷やかしを心地よく受け止めながら、彼に向かって笑ってみせた。
その日の帰りも、彼は私の手を取ってくれた。
「ねえ、佐野君の影はどう見えるの」
「真っ暗だよ。何も見えない」
自分の影は見えないのかもねって返したら、「そうだと良いね」と冷たい返答をされた。
きっと最初に出会った時から、私は分かっていたんだと思う。影に色が見えなくても、彼の目はずっと悲しげだったから。
「私、一緒にいるよ。佐野君を一人にしないよ」
「君だけだよ、そんな風に僕を見るのは」
彼は笑った。初めて笑った。上を向いて笑っていた。そして、同時に泣いていた。涙が頬を伝って、影の中に落ちた。
「ごめん、君を連れてはいけない……ごめん……ごめん」
彼は泣きながら言った。彼は泣きながらずっと謝っていた。
そんな彼を慰めるように、自分の気持ちを確かめるように、繋いだ手の指を絡ませた。
「大丈夫だよ、ほら見て。私の影」
「……そっか」
どんな色に映っていることだろう。できるだけ、純粋な色であってほしい。
まだ夏が終わっていなくて良かったとも思った。もう少し違う季節なら、日が沈んでも何も見えなくなっていただろうから。
彼が遮断機をくぐる時、私も一緒にくぐった。彼が線路に眠る傍ら、左腕だけがレールを跨ぐように寝転んだ。
何があっても離れないように、繋いだ手に力を込めた。
電車の急ブレーキが響く中、彼が粉々になる姿を見ていた。
左肩が焼けるように熱かった。無くなった左手に、未だ彼の温もりを感じていた。
これで良い。これで私が、私だけが彼と一緒にいる。私たちはずっと一緒だ。
笑いながら立ち上がって、真っ赤に染まった自分の影を見た。
ずっと君の右側で 文月瑞姫 @HumidukiMiduki
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