第20話 私とコロラリー


「紫、包丁なんて持って、何してるの?」


 硬直状態に陥った私達の中でいちばん最初にそう言ったのは、夕さんだった。

 夕さんは怒りもせず、呆れもせず、焦りもせず、淡々と「なんでそんなことするの?」と言った。

 それでも確かに私を後ろ手で下がらせるものだから、何だか私は泣きたくなってしまう。

 庇われたことが嬉しかったんじゃない。紫さんのことを思って、悲しくなった。


 そして現に、紫さんはそんな夕さんの仕草を見て、顔を歪める。


「……なんで?なんで、夕はあたしを見てくれないの……」

「なんでも何も、今見てるじゃん」

「違う!見てない!」


 紫さんはそう叫ぶと、ますます包丁を持つ手に力を込めた。

 ゆるゆると、その切っ先が夕さんの方向から床に下がっていく。それだけで、私はもう紫さんが何をしようとしているか、分かってしまった。

 勘違いならまだいい。本当に床に落とそうとしているなら、それでいい。

 でも彼女のその仕草は、今からその切っ先を自分に向けるための方向転換にしか、見えなかった。


「なんで、夕はあたしに何も言わねえんだよ……なんで……ねえ、なんで……」

「なんでって、だから……」


 私は咄嗟に言葉を続けようとする夕さんの腕を掴んで「待って!」と言った。不思議そうな、それでも少し困惑したような目が私を見る。もうこれ以上、夕さんが紫さんを傷つけるところを、私は見たくなかった。


「わ、私​──────実は、病院に行ってるんです!」

「…………は?」

「初ちゃん、急にどうしたの」


 咄嗟の叫びに、少しだけ空気が緩和する。私はそれを言い事に、息を吸ってもう一度口を開いた。


「……その、病気、とかじゃなくて。いや病気は病気なんですけど。その……なんですかね。自分で言うのもおかしいけど、私って結構不安定らしくて。薬無いと、駄目なんです。生きていけないんです。眠れないんです。ここにいることやしていることが全部、間違っているような気になるんです」


 二人は何も言わなかった。夕さんは前鉢合わせてしまったことからもこの事を知っているけれど、何も知らないはずの紫さんも黙って私を見つめていた。


「包丁とか、も。使ったこと、あります。あれ、本当に……痛いから。なんか人並みですけど、痛いから、やめた方がいいです。変になると、傷、残るかもだし。私、紫さんにそんな思い、してほしくないです」


 そこまで言って、ああそうじゃない、と思い直す。

 カウンセラーに通い詰めていると、どうにも話が飛び飛びになるくせがついてしまう。私だけかもしれないけど。


「ええと……その。うーんと……何が言いたいかって言うと、私、この話するつもりじゃなかったんです。言いたくないなー、って思ってたんです。だって、どうせ皆分かってくれないから。分からないって顔されるのも、なんか変に腫れ物になるのも、嫌だったから……」

「…………別に、んな事思わないけど」

「あはは。そう、ですかね。でもやっぱり、怖いです。今もちょっと、後悔してます。けど、言って良かったとも、思います。夕さんと紫さんになら、言っていいのかな……って思えたから」


 自分の息が少し、浅くなってきたのが分かる。紫さんはまだ包丁を手放さなくて、それが怖い。

 刺されるのなら、私がいいと思った。それが一番、誰も傷つかないような気がしたから。


「言いたくないことって、誰にでも、あると思います。言えないことも、あると思います。私だってまだ、この家の誰にも言ってなくて言いたくないことが、あります。でも……もし夕さんや紫さんや葵さんが……それを知りたいと、分かりたいと、思ってくれたなら……私は、それを否定できません。嬉しいとすら、思ってしまうかもしれません」


 私はそう言いながら、夕さんの手をやんわり押しのけて、紫さんに近づいた。

 包丁を持っているのは紫さんの方なのに、酷く怖がっているものだから、それが少しおかしい。


「喋らなくてもいいです。言わなくてもいいです。でも知りたいと思うことを、否定しないで欲しいんです。誰かを分かりたいと思うことを否定する権利は、きっと誰にもありません。私にも、夕さんにもありません」


 言い終わると、紫さんが力なく笑った。包丁が手から離れて、地面に落ちる。フローリングに傷がつかなくて良かったと、どこか他人事のように思ってしまう。


「…………あたしはどうなんだよ」

「…………紫さんは、それこそそんなこと、一番言わないでしょう」

「知ったような口聞きやがって……」


 紫さんは私の横を通り過ぎて夕さんの目の前に立つ。私は彼女が手を出すんじゃないかと思ってドキドキとしたけど、彼女は夕さんに向かって「…………ほんと、ムカつく……」と零すだけだった。

 夕さんは返事をしなかったけど、もうなんで、とも言わなくて。


 そこで私はようやく、自分の呼吸が元に戻って来るのを、感じることが出来たのだった。

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