第19話 私と処刑台
「許せなかった……あたしはあたしが許せなかった……同じ血を引いてんのに、夕と同じ位置に立てないあたしが許せなかった……」
私は、そう蹲った紫さんが捻れるような声で呟くのを聞くことしか出来なかった。
「最後の、夏だった。夕は夏のコンクールに出ないって言った。もうトランペットを吹くのも辞めると言った。あたしは許せなかった。だって、そんなの許されないから。母さんだって許すはずがないんだから」
はっきり言って、紫さんの気持ちはさっぱり理解できない。
紫さんからして、夕さんという存在との自他境界はあまりにも脆いようだった。
そして誰かをその人のためだからと言って抑圧する行為なんて、私が最も忌み嫌うものだ。そんな行為を進んで行う理由なんて分かるはずがない。
「あたしは止めなきゃと思った。何度も説得して……だから、その日もパート練習の時に夕を説得した。階段の踊り場でのことだった。夕は言うことをちっとも聞いてくれなくて……あたしは、腹が立った。だから……だからっ!気がついたら……夕に掴みかかってた!夕はバランスを崩して…………無事だったけど、トランペットは壊れて……その日から、夕は吹奏楽部を辞めた。トランペットを吹かなくなった…………あたしのっ、あたしのせいだった……」
でも─────それでも。
紫さんが一人で苦しんできたのだということは、確かに分かった。
紫さんは泣きもしない。ただ自分の顔に爪をがりがりと走らせて、皮膚が弱いのだろう、蚯蚓脹れのようになったそこは真っ赤だった。
「……虐めたのも、同じ理由ですか。夕さんを矯正しようとして……」
「虐めてなんかない!あれは必要なことだった!夕が母さんの娘になるんだったら、あたしはもっと夕をちゃんと完成させないといけなかった!母さんだってそれを望んでた!」
「…………じゃあ、紫さんは!?紫さんはどうだったんですか!」
私は耐えきれずに、紫さんに掴みかかって彼女を揺さぶる。
そこで初めて、動揺したような瞳が私を見るのが分かった。
「負けて悔しかったんでしょ!許せなかったんでしょ!だったら……なんで諦めたんですか……」
「あんたにあたしの何が分かる!?」
「───分かんないから聞いてるんじゃないですか!紫さんのことは……紫さんにしか分からないんですよ!言わないと、分かって貰えないんですよ……」
私の脳裏に過ぎる、母さんの後ろ姿。
その時の母さんは、いつもハジメの写真を眺めている。私はその背中に、何も言えなかった。その写真を片付けて欲しいと、一言も言えなかった。
「……教えて、下さいよ。一応、こんなんでも……貴方、私の姉なんでしょう?だったら、ちゃんと答えて下さいよ……」
私の言葉に、紫さんは唇を噛み締めた。それから数分して、ようやくただ一言「……わかんない」とだけ言ってくれる。
あたしは息を一回大きく吐いて、紫さんの手を取って、無理やりに立ち上がらせる。引きずる、と言った方が正しいかもしれない。
「ちょっ、どこに……」
「本人のところです。分からないことは、聞きましょう。その方が早い」
「はあっ!?何でそんなこと!」
「いいから!嫌なことはさっさと終わらせた方がいいでしょ!」
私は段々と腹が立ってきて、紫さんの頬を思いっきりパーで叩いた。流石にグーでは出来ない。
すると紫さんも速攻で私の頬を叩き返したものだから、私達は顔を見合わせて黙りこくった。
紫さんの体から力が抜けて、逆らっていた腕がだらりと下に動くのが分かる。
だからあたしはもう一度彼女の手を引っ張って外へと、下の階へと連れ出した。
もうその動きに逆らわれることは、無かった。
「………………」
「あ、初ちゃん。中々遅いから心配したよ。紅茶でも入れようか?それとも……」
「夕さん。夕さんは何で引きこもりになったんですか」
私の突発的な言葉に、夕さんは微笑むだけだ。
そこには驚きも嫌悪もない。
「質問の形を変えてもらおうかな。本当に聞きたいのはそうじゃないでしょ」
「…………引きこもりになった理由は、紫さんじゃないんですね」
「────うん。そうだよ。紫のせいなんて、なに一つ無かった」
それはなんて残酷な言葉なんだろうと私は思った。君のせいじゃないよ、という言葉は救いにもなれば突き放しにもなる。
引っ張ってきた紫さんの手のひらが震えているのを、私は感じた。
「……本当に?紫さんのこと、本当に怒ってないんですか」
「怒ってないよ」
「色んなこと、されたんですよね」
「されたけど……別に、殺された訳でもないし」
「トランペットだって壊されて、偶然とは言え突き飛ばされて……」
「ああ、あれ故意じゃなかったんだ!ごめんごめん、なんか勘違いしてたよ。でもどっちにしろ気にしてないから、安心して」
そう言う、夕さんの声色はいつもと変わらなくて、それがとても怖かった。
本当に何でもなかったのだ。夕さんにとって、紫さんという存在は、何でもなかった。
「────ふざけんな!!」
そう叫んだ紫さんは、私の手を振りほどき、止める間もなくキッチンに駆け込む。何やらガタガタと探している音がして、そうして戻ってきた時には、その手には鈍く光るものがあった。
────それは紛うことなき、包丁だった。
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