第17話 あたしとブレーメン③
八月になった。
コンクールにはあたしの母さんも来ていて、確かに夕のトランペットを聞いた。だって、夕にはソロのパートがあったから。
オーディションも何もなく、当然のように夕は一人でその小節の連なりを吹いていた。たった一人のブレーメン。
あたしはそれを眩い光の中、彼女の隣で聞いていた。きっと一番の特等席だったろう。
『凄かったわね、トランペット』
帰りの車の中で母さんはそう言った。ちょうど夕方の時間だったから西日が差し込んで、眩かった。
母さんの顔は逆光で見えなかったけれど、微笑んでいることは何となく分かる。
『────あの子、名前はなんて言うの?』
夕、とあたしは言った。
それから母さんはもう二度とあたしの名前を呼ばなくなって、その代わりに夕の名前を呼ぶようになった。
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その赤い屋根の大きな家のチャイムを、何度も鳴らす。こんなことをすれば親か誰かが出てきそうなものだけれど、誰も出てこない。
結局五分近く押し続けて、困った顔の夕がボサボサの頭のまま扉から出てきた。
『ふぁ……まだ寝てたんだけど……なんかあった?顧問の先生死んだとか?』
『朝練でしょ。さっさと行くよ』
『ええ……?急にどうしたの』
『いいから早く着替えろ!』
そうやってあたしは無理やり夕を引っ張り出して、朝の音楽室に連れていく。
部屋に入ると皆はギョッとした顔をしたけれど、あたしは気にせず夕を席に座らせて、彼女の楽器と楽譜台なんか諸々を持ってきてやる。
『ねえ、本当にどうしちゃったの?君そんなキャラじゃないじゃん』
あたしは夕の髪を黙って持ってきた櫛で梳かしてやる。そうしながら、『ゆるせないんだよ』と言った。
『ゆるせないの。あんたがちゃんとしてくれないと、あたしがあたしをゆるせない。あんたはあたしよりもトランペットが上手いんだから、あたしよりも練習しなきゃいけない。身だしなみも整えなきゃいけない。あたしよりも頭が良くて美しくなきゃいけない。一番じゃないといけないんだ』
あたしのその言葉を聞いてもなお、夕は『なんで?』と平然と口に出した。
どうしてこんな簡単なことも分からないのかと思えば腹も立つというもので、思わず力が入って彼女が『いた、』と声を上げる。
櫛には、数本の髪の毛が絡まっていた。
『夕、どうして起きられないの?』
『夕、しっかりしろよ』
『夕、何であんたが指使いをミスするの?』
『夕は夕なんだから絶対にそんな格好をしちゃ駄目』
『夕』
『夕』
『夕!』
『夕……』
ある日あたしは、顧問に呼び出された。彼女が言うには、あたしが夕の小間使いのようなことをしているから心配らしい。とどのつまり、お前あの女にばっか構ってないで自分のことをしろよ、って意味だ。
馬鹿げてる。
『先生こそ、どうして夕のソロをもっと増やさないんですか?』
『ちょっと、今そんな話は……』
『どうしてあのトロンボーンを残してるんですか?あれは夕の演奏の邪魔です。67小節のマリンバだってそう。夕の音を邪魔してる!夕の演奏はいつだって完璧じゃないといけないのに!なのに……!』
『紫さん!落ち着いて……』
『なんで落ち着いていられるんだよ!?夕の……夕の演奏がどうして邪魔出来る!?どうしてそれを黙認していられる!?夕が一番じゃなくなったら何の意味もないのに!先生は夕が一番じゃなくなったら責任取れるのかよ!?なあ!』
気がつくとあたしは顧問に詰め寄っていて、たまたまその光景を目に留めた他の部員に引き剥がされる。
その光景を、たまたま夕も見ていて、彼女とあたしの目が合った。
夕は、いつも通りの目をしていた。たった一人でブレーメンをしている時と、同じ目だ。
他人と他人の区別が付かない、そんな目をしていた。
『今日の夕さんはどうだったの?』
母さんは爪を真っ赤に塗りながらそう聞いて、あたしは今日の夕が、夕の演奏がどうだったかを答える。
あたしの説明を聞いた母さんはいつも満足して、『貴方が彼女を保たないと駄目よ』とお決まりの文句を言った。あたしはそれに頷いて、そこでようやく彼女の食事に手をつけることが出来る。
不自由は何も無かった。本当に、何も無かったのだ。
▼
『────いやそれ、虐待でしょ』
夕はトランペットを磨きながら、なんてことのないように言った。
珍しく夕があたしの母さんの話を聞いてきて、少しそわそわとしながらも話してあげたら、このザマだった。
『は?別に殴られてなんかないんだけど』
『殴るだけが暴力じゃないでしょ。君のお母さんのそれは、殴ってないけど暴力だよ』
なんだそれ、と反論しようとした口は、夕の『私は君が心配だよ』という端的な言葉で閉じた。閉じてしまった。
普段あれだけ回る口が、どこか粘ついた感覚になってあたしを襲った。息が苦しくなって、もごもごとした口調で『な……んで』とか抜かしてしまう。
『だって、同じパートだし』
夕は珍しく少し笑いながらそう言って、あたしはつくづくこの女のことが嫌だと思ったし、そんな自分の方がもっともっと嫌だと思った。
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