第16話 あたしとブレーメン②


 どこまでも舐めきったその女は、楽譜も舐めきっていた。

 ファイルに入れもしないで、ぐちゃぐちゃに折れ曲がったそれを、駄菓子か何かの空き袋と一緒に引っ張り出してくる。

 そうして取り出されたそれには、何も書かれていなかった。

 注意書きも、蛍光の線も、何も。

 そのまっさらな楽譜には、何かをこぼした跡なのか茶渋のようなものだけが確かにこびり付いている。


 あたしは、こんな女がファーストなのが信じられなかった。

 この部のトランペットのファーストはあたしと、その女だけだったから尚更だ。

 顧問がトロンボーン達に構っている間、あたしはそいつに『……ふざけてんの?』と言ってみた。

 ​─────返事すら返ってこない、マジでふざけてる。


『……夕さん、準備出来た?』

『はーい』

『……はあ、それじゃあトランペットパート。52小節、夕さんだけね』


 顧問が夕と呼ばれた少女を当然のように指さす。

 彼女はその線を特に気負うこともなく受け止め、息を吸った。まるで呼吸をするかのように、自然に。それで、音を出した。


 ​────本物だった。


 正確に言えば、彼女以外の全ての音が偽物だと思わされるような、そんな音色だった。

 どこまでも美しくて、めちゃくちゃで、通る音。唯一無二だと直ぐに分かった。あたしが勝てないことも、直ぐに分かった。

 あたしは愕然としながら、彼女の指先をまじまじと見つめる。でも、トランペットの操作は単純だ。重要なのは口、舌、呼吸、体。どこまで見ても、分からない。

 彼女の軽やかさしか、あたしには分からない。


 彼女は、ブレーメンだった。

 たった一匹のブレーメン。四匹居なくたって、誰も気にも留めないブレーメン。


『はい、じゃあ次トロンボーン……』


 音がどんどん横にずれていっても、あたしは彼女から目を逸らせなかった。すると彼女も彼女でこちらに気づいて、『何?なんか付いてる?』とだけ言う。


『あんた、トランペットいつからやってるの』

『あんたって。私には一応、夕って名前があるんだけど』

『良いから答えろよ』


 夕は笑って『普通に、中一からだよ』と言う。信じられなかった。あたしが負けたことも、あたしよりトランペットに触れていないことも、それがこんな適当な人間であることも、全部が全部、信じられなかった。


『…………どうして?』


 あたしの問いに、夕は答えない。ただあたしのことを無視して、意味もなく楽器を磨くだけだった。



 ▼



 負けたくないと思った。

 夏のコンクールは母さんも見に来る。母さんはきっと、そこで夕があたしよりも勝っていることに気づいてしまうだろう。

 その時、きっと母さんはあたしを見捨てるに違いない。頬を叩かれるなんでまだいい方で、もう二度とあたしを愛してくれないかもしれない。

 あたしは恐ろしい何かから逃げるようにずっと練習を続けた。ずっと、ずっと、ずっと一人で練習を続けた。

 夕に勝つこと以外どうでもよかったあたしは他の部員には嫌われたけど、そんなのどうでも良かった。だって、あたしより下手なのが悪い。悔しいなら、あたしと同じことをすればいい。

 あたしは負けるぐらいなら死んだ方がいいと思っているから。



『あ!やっと起きた!』

『……………』

『君さあ、全体練習でぶっ倒れたんだよ。お陰で私がここまで運んできて……まあサボれたから良かったけど。先生呼んでくるからちょい待ってね』

『…………』


 せんせえ、と気の抜けた声が響く。

 七月の中旬、熱中症で倒れたあたしは保健室に居た。傍らには、あの夕がいる。

 彼女は相も変わらず全体練習には偶にしか顔を出さなくて、それでもトランペットが一番上手かった。

 あたしはカーテン越しに見える彼女の影に、今日もブレーメンを見いだした。


『もうちょっと休んでいいって!』


 そのカーテンがいきなり開いて、のほほんとした夕がそんなことを言うから、あたしは少し驚いてしまう。

 夕はあたしをとことんサボりに利用するのか、またどっかりと脚を開いて丸椅子に座った。

 髪色は青だった。


『最近なんかすっごい練習してるって聞いたよ。一年生なのに偉いねー』

『あんたが来なさすぎるんだろ……』

『あはは。それはまあ、そうね』


 あたしが睨んでも、夕は気にも留めない。留めてくれないとも言うべきか。


『紫ちゃんは、トランペット好きなの?だからそんな練習してるんだ?』

『…………好きっていうか、あんたみたいな人間に負けたくないだけ』

『私?』


 夕は怒ることもなく、不思議そうな顔をした。


『なんで、私?』

『…………あんたの方が、上手いから』


 口にするだけで頭が痛む。それなのに夕は『そうなんだ』と言うだけだった。


『君には、そう聞こえるんだ』

『あんたの耳が悪すぎんだよ』

『そうかなあ。私は、君も私も同じ音だと思うけど』


 きっと​────熱中症で倒れていなかったら、あたしは夕をぶん殴っていたに違いない。それほどまでに侮辱的な言葉だった。

 内心でそんな感情を抱えるあたしを見下ろして、彼女は目を細めてこう呟く。


『全部全部……同じ音だけどなあ』


 その時の夕の目が、ずっとあたしの脳裏に焼き付いて離れなかった。

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