第11話 私と亡霊
夜中、いつものように目が覚めた。
普段と違う所があるとすれば、体が鉛のように動かないことだ。
「…………」
私は抱えていた羊のぬいぐるみを布団の奥底に追いやる。それでも声は聞こえてきて、私は耳を手で塞ぐ。
ここ最近、聞こえてこなかった幻聴が、また最近酷くなりだした。
聞こえない聞こえない、と言い聞かせてもハジメはずっと私に喋り続けてる。
ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと。
ずっと。
私はその全てを振り切って、屋根裏部屋から二階に。そのまま壁に身体をずるずると押し当てながら一階に降りた。夕さんは、今日はいない。そのことに安堵と不安、半々の気持ちを抱えながら水道水を飲む。それと、気休め程度の頓服も。
そうして部屋に戻ろうとした時、リビングと廊下を隔てる扉に、真っ黒な影が見えた。
「……夕さん?」
返事はない。真っ黒な影は、ゆらゆらと蠢いている。
「じゃあ葵さん……葵さんなんでしょ、ねえ……」
返事は無い。
ゆらゆら、影は私を待っているかのように扉の前に佇んでいる。
ハジメだ、と私は思った。
「やめてよ……ねえ! どっか行ってよ! あんたなんか知らない! どっか行け!」
私は耳を塞いで思い切り叫ぶ。
そうしてしばらくキッチンの隅で息を殺して蹲っていると、バタバタと忙しない足音がして、扉が開いた音がした。
「初!」
「初ちゃん……⁉」
入ってきたのは葵さんと夕さんで、私の体からどっと力が抜ける。ついでに胃液がせりあがってきて食道が焼けるような感覚がしたけど、安心感に勝るものではなかった。
「影が……扉の前に……」
「影?」
怪訝そう顔をした葵さんが扉の前に行って、「……なにも居ないぞ」と言う。
そんなの当たり前だ。だって、ハジメは私にしか見えないんだから。ハジメが殺そうとしているのは私だけなんだから。
「ねえ葵、初の……お母さんとか呼んだ方がいいんじゃないの?私達じゃどうにか出来る問題じゃないよ、これ」
「……なんで医者でもないお前にそんなことが分かる?」
「医者でもないけど、当事者みたいなもんではあるでしょ。それとも葵は、初ちゃんを私の二の舞にさせる気?」
「…………」
夕さんの言葉に、珍しく葵さんは押し黙ってしまう。
このままだと親に連絡されそうな気配を感じた私は、葵さんの寝巻きに縋って「やめてください!」と叫んだ。
一瞬の間のあと、ぐるりと四つの目が私に集中して、やっぱりこの人たちは血が繋がった姉妹なんだとどこか他人事のように思う。
二人とも困った時に眉がきゅっとなるところが、同じだった。そのことにも気づいて、なんだか私は切ない気持ちになる。
「私……大丈夫ですから……」
今度こそ二人は顔を見合わせた。
昔、私のお母さんと前のお父さんが同じようなことをしていたっけ。私を持て余して、どうしようか、みたいな無言の間。
その時の私は泣いていて、だからじゃないけど今の私も泣いた。
「……夕」
「……何」
「私は、どうしたらいい?」
「知らないよそんなの……」
「夕だったらどうする」
「……そういう時は、夕だったらどうして欲しいって聞くべきだとおもうけど」
「夕だったら、どうして欲しい」
「…………はーあ! なんで私の時にそれが出来なかったのかなあ!」
夕さんの大きな大きな溜息が降ってきたあと、彼女は明るい声で「明日は、学校休んじゃおうよ」とだけ言った。
「……それだけか?」
「馬鹿だな。それだけのことが、私にとってはそれほどのことだったんだよ。葵には死んでも分からないだろうけど……」
夕さんは私の背中を優しく擦りながら「初ちゃんも、それでいい?」と聞いてくれる。私は葵さんの顔色を伺った。
「……有給を消化するように言われていたんだった」
「……私、聞いてませんけど」
「今言ったからな」
私はそのあんまりな言い様に少し笑ってしまって、そうすると二人の姉はほっとしたような顔をした。葵さんですら良かった、と顔に書いていて、私はまた笑った。
「おい、夕、笑われてるぞ」
「はあ? なんで私が笑われてるの。葵が笑われてるんでしょ」
「私は社会に顔向け出来ないようなことはしていない」
「は? じゃあ何? 私が社会に顔向けできない人間ってこと⁉」
「ちょ、二人とも……」
慌てて私が間に入れば、二人とも私の頭上で揉めながらも、私の背中を摩ってくれる。呼吸が段々整って、視界が広くなる。余程パニックになっていたのか、机のものが気が付かないうちに散乱したり、地面に落ちていることにも気がついた。
でも、二人は怒らなかった。それが嬉しいやら情けないやらで、私はまたちょっと泣いた。そうしたら二人が慌てて、さっきと同じようなことを繰り返す。
そんなループを三度している間に朝が来た。眩いどころか、ほの暗い光だった。
誰も何も言わなかったけれど、自然と体は動いていた。
葵さんは何もしないとばかりに座って、夕さんはベーコンと卵を取り出して、私はお湯を沸かした。
カトラリーの音だけが響く。
時刻は午前五時。
そうして私達は───きっと生まれて初めて、三人同じ机で朝食を食べることが出来たのだった。
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