第10話 私と伏魔殿


「初ちゃん、新学期はどう? 楽しんでるー?」

「いや……なんか脅しを受けてますね……」


 まさか貴女の妹に脅されてますとも言えない私がそう言うと、夕さんは少し目を瞬かせて、それからケラケラと笑った。本当に、良い意味で引きこもりらしくない人だ。

 ちなみにいつの間にやら髪の毛はピンクからグレーアッシュに変わっていた。こちらの方が目に優しくて、私は好きだ。


 ちなみに今日の夜食はフランスパンにガーリックソースを塗って焼いたもの。私はレモン汁をちょびっとかけて、夕さんは追加で塩胡椒を振りかけていた。

 それはさておき。


「凄い! なんかそれ、少女漫画の導入みたい! そんなことあるんだ!」


 あってたまるか、と内心で思いながら「夕さん、少女漫画とか読むんですか?」と素朴な疑問をぶつけてみる。


「うん! 時間だけはめちゃくちゃあるからねー、漫画も読むし本も読むし映画もサブスクで見てるよ! 良い時代になったよね」

「……前々から思ってたんですけど、普段家で何してるんですか? ずっと……そういうコンテンツを見てる感じですか?」

「そうだねー、あとは料理したりとか……二人が居ない時は部屋の掃除したりとか洗濯したりとか、あとは毎朝ラジオ体操」

「け、健康的…………」


 私の言い様がおかしかったのか、尚更夕さんはあはあはと笑う。


「初ちゃん、どうして私が引きこもりになったんだって思ってるでしょ」

「え? いやまあ……思ってますけど……でも、理由を聞きたいとかはないですよ。……あっいや、あの、夕さんが話すことで楽になるなら、全然聞きますけど……」

「……初ちゃんはあれだね、優しいね」


 その言葉に、私は少し困ってしまう。私は優しいと言われるに相応しい人間じゃない。

 どちらかと言うと、それは​─────


「やっぱり​────経験があるから、自分と似たような人に優しくなれるのかな?」

「…………」


 言い当てられると思わなくて、私は一瞬言葉を失ってしまう。そしてそれは、彼女に正解です、と言っているのと同義だった。

 夕さんのこういうところが、私は怖い。彼女には、葵さんとも紫さんとも、違った怖さがある。


「本当は自分がそうされたかったことを、君は私にしてるんだね。そうやって君は私を通して、過去の自分の心を治療してるんだ」

「…………すみません」

「やだな、怒ってないよ。なんなら初ちゃんは、寧ろよくやってると思う。これは皮肉でもなく、本当に。学校行けるなんて凄いよ」

「……夕さんに言われると、説得力ありますね」

「あはは! まともに学校とか会社に行けてるやつに『生きててえらい!』って言われるより、断然マシでしょ?」


 そんな結構酷いことをさっぱりと言い切った彼女は、それから笑みを消して、私にこう問いかけた。


「経験があるなら、分かるよね。一度崩れてしまった心のバランスを戻すのはすごく難しいって。現に私は数年経つけど、全然戻らない」

「……はい」

「無理にとは言わないけど、何かあったら早めに葵に言った方がいいよ。あの人ならまあ……ちょっと心無いかもだけど、事務的な対応“だけ”はしてくれるし」


 思うところがあるのか、だけ、という部分をやけに強調して彼女は言った。


「そこは、夕さんがどうにかしてくれるとかじゃ……ないんですか?」

「私にはどうにも出来ないよ。ただの社会不適合者だからね。できるのはお料理だけ」

「それでもじゅうぶん、すごいと思いますけど……」

「あはは。まあ……才能ってもんは得てして、自分の望み通りにはいかないものだから」


 そんな会話で、その日の小さな小さな密会は過ぎていった。



 ▽



 相も変わらず部活では冷遇されているけれど、いざ冷静になって周囲を見てみると、私なんかより紫さんの方がよっぽど冷遇されている。というか、ハブられている。


 パート練習も一人だし、全体練習でも若干椅子を遠ざけられている。

 すれ違っても舌打ちされていることなんてしょっちゅうだし、何なら週に一回誰かにつっかかられてヘラヘラ笑っている彼女の姿を見た。

 ……なんというか、メンタルが強い。


 だからこそ、私は彼女の元が一番安全なのだと理解した。

 虎の威を借る、ではないけれど、私にとって最も避けるべきは孤立ではなくて、万が一にでも神さんに危害が与えられないようにすることなのだ。

 だから言ってしまえば​────それ以外ならどうだっていい。他の人に嫌われようが、孤立しようが、どうだっていい。

 人間は最低限、生きてさえいればいいことを私は夕さんとの会話で随分と久しぶりに思い出すことができた。


「……アンタ、なんでここにいるわけ?」

「偉大なお姉様に教えを請おうかと」


 パート練習の時間に、私は紫さんの隣に椅子とクラリネットを持ってきて(ようやく渡して貰えた)座る。

 そうしてわざとらしくそう言えば、彼女の口の端が歪んだ気がした。存外沸点は低いらしい。


「……あたし、トランペットなんだけどさあ?」

「ボタンカチカチ押すんだから、一緒ですよ」


 そんな全国のトランペットおよびクラリネット奏者を敵に回すようなことを言えば、たまたま前に居た知らない先輩が振り向いてこちらを睨むので、私は取り敢えず笑っておいた。だって別にこの人に嫌われたって、命の危険は無いのだから。


 …………無いよね?

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