第9話 私とアレグロ

「​───初、何かあったか?」

「えっ、急になんですか?」


 朝、まだテレビが真面目なニュースを取り扱っている時間帯。

 そんな朝食を二人で取っている時に、葵さんは突然そんなことを言った。


「いつもより目玉焼きが焦げている」


 怖い。そんな所まで見られているとは思わなかった。


「いつもより起きてくるのも遅かった。アラームの鳴る時間は変わらないのに」


 ……いやだから怖いって。なんでそこまで把握してるんだろう。

 アラーム、そんなに部屋の壁を貫通してるのかな。もしそうだったら、申し訳ないことをしたかもしれない。


「上の空だから今日もさっき私の歯ブラシを一瞬間違えて手に取った。私の箸もいつも揃えて渡すのに今日はバラバラで、食事中も普段は食べているものを見るはずなのに、今日は机の真ん中ばかりを見ている」


 シンプルに怖い。それはもう関係なくないか? と思うようなところまで言い当てている。多分それは関係ないです。


「そして何より​────最近の初はいつもより可愛げがない」

「そ、そんな溜めて言うことですかそれ」

「……私の目を見ない」


 ぼそりと呟かれた声に、思わず私は「え?」と聞き返してしまう。


「私を諦めないと言った癖に、私の目を見て話さないだろう」

「えっ、いや……ああ、えっと、そういうわけじゃなくて……」


 浮気を指摘された時のような弁解しかで出来ない私を見て、葵さんはふん、と鼻で返事をした。……返事かな、これ。


「……別に、何かあったわけじゃないのなら構わない。ただ何かあったのから、早めに言え」

「はい。すみません……ちょっと、最近寝不足なだけで。本当、平気ですから」

「…………」


 そう言って、そそくさとお皿を片付ける自分背中に彼女の鋭い視線が突き刺さるのを、私はひしひしと感じることになるのだった。



 ▽



 本当は紫さんという厄介そうな人がいる時点で、吹奏楽部に入る選択肢は無かった。

 無かった……のだけれど、紫さんは見学の当日に勝手に私の入部届を出してしまった。勝手に私の名前を書いて、準備室に居る顧問に渡すだけで、私は簡単に吹奏楽部員になった。

 高校生の入部届なんて印鑑を押す欄も無いものだから偽造なんて簡単だったとは、後から嫌な笑い方をした紫さん本人が教えてくれた。


 そしてあろう事か、彼女は腕を掴んで(拘束とも言う)私を音楽室の一番前に引きずり出し、個々で練習している先輩達の目線を集めさせた挙句こんなことを言う。


「これ、あたしの大事な妹なんだ。お前ら精々仲良くしてやれよ」


 その瞬間、ありとあらゆる嫌悪に満ちた視線が私に突き刺さるのを感じたし、それをものともしてない紫さんは余程の悪人なのだと確信した。



 私は中学生の時も吹奏楽部でクラリネットを吹いていたから、ある程度のことは出来る。楽譜を読んだりだとか。ただ、それにしたってこれは新入生にする態度じゃないだろう。


「あの、すみません。楽譜台ってどこに……」


 そう声をかけた先輩は、私の声なんて聞こえていないかのようにトロンボーンを吹いた。

 金管楽器特有のパ、パ、みたいな音が私の追撃を許してくれない。


 そんな感じで、私は絶賛部活内でハブられているのだった。

 今もパート練習が行われている場所を教えて貰えず、途方に暮れている。なんなら自分がクラリネット担当になっているかすら分からない。

 他の新入生、なんなら高校から初めて吹奏楽をするという子達には丁寧な指導があるのに、私は未だ楽器を持ててすらいない。


 まあ私は別に吹奏楽部に入ることを高校生活の生き甲斐にしている訳ではないので、そのまま部活をサボっても、それどころ直ぐに退部したって良かった。

 ……良かった、のだけれど。


「おーい、どこ行くんだよ妹チャン」


 その日、練習をサボって帰ろうとした私を引き止めたのは紫さんだった。彼女は準備室の壁にもたれかかって、私に目線をやる。

 別に通せんぼされているわけじゃないから横を通ればいい……のだけれど、その瞬間彼女に害を与えられそうで、私は大人しく立ち止まった。


「全体練習もまだじゃん。一年からサボるなんていい度胸してるねえ」

「サボるっていうか……私、もう退部するんで」

「は?  駄目じゃんねえ、そんなことしたら。内申点に響くよー?」

「……脅しですか、それ」


 私の言葉に、彼女はヘラヘラと笑う。


「まっさかー! こんなのが脅しなワケねえだろ​───────ふざけてんのか?」


 彼女の顔からは表情が抜け落ちた。

 ここには他の部員もいるのに、彼女はそれを気にもしない。逆に言えば、部員達も彼女と私がいないかのように振舞っていた。

 その異質さに、じわじわと体が蝕まれていく。


「誰だっけ? 神さん……だっけ? アンタの友達」

「…………」

「いざとなったらあたしはソイツの腹ぐらい蹴るぞ。分かるよな。お前が部活辞めたら、あたしはお前より真っ先にソイツの腹殴りにいくよ。あたしが何も怖いもんない人間だって、妹チャンもそろそろ分かってるよな?」


 ゾッとした。

 その内容もそうだけど、たかが湧いて出てきただけの妹のことをそこまで憎悪できるその精神性が、何よりも気持ち悪いと思った。


「……どうして、そこまでするんですか」

「うーん、秘密!」


 そう言って、紫さんは笑う。


 ​───────私はそんな無敵の人にたった一人の友人を人質に取られて、吹奏楽部という場所から逃げることが出来なくなってしまったのだった。

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