第7話 私と母親なるもの


 カチャカチャと、食器が当たる音だけが響く。今日も私達の食卓は無言だ。


 あれから三日経ったけど、葵さんは何も言ってこない。怒っているというわけでもなく、呆れているというわけでもない。

 ただ、私がずっと口を閉ざしているから自分も閉ざしているという感じだ。


 きっと夕さんはこれで嫌になったのだ、と察することは容易だった。


 ただでさえそんな日々が続いていて息苦しいのに、今日は母親に顔を見せないといけない日だから、更に憂鬱になる。


 私は食パンの耳をなんとか飲み込んで、のろのろと席を立った。



 ▽



 喫茶店の中に入ると、お母さんはもう席に着いていた。

 私はなんて声をかけようか迷ったけど、彼女はスマートフォンに何か文字を打ち込んでいたから、私は黙って席に座る。

 私が席に座っても彼女は画面から目を離さなくて、結局最初に私に喋りかけたのは、お冷を持ってきた店員さんだった。


 そうやって久しぶりに会ったお母さんは、随分とくたびれた様子だった…………と、言ってみたかったけど。

 実の所、私にはよく分からない。私はお母さんと一緒にいる時、いつも下を向いているから。


 結局、そんな私達が顔を見合せたのは、彼女が先に注文していたらしいランチセットが届いてからだった。


「最近、どうしてるの」

「どうって……そんな、大したことはしてないよ。料理とか、掃除とか、洗濯とか、普通にやってる」

「そう。四月から高校生になるんだから、勉強もしっかりしなさいよ」

「うん……」


 沈黙。

 お母さんは、セットのグラタンを一人で食べている。

 私は昔から、彼女のこういうところが嫌いだった。

 一緒に喫茶店に来たのに、先に注文してしまうところとか、なんていうか、分かるかな。別に分かって貰えなくてもいいんだけど、そういう嫌さが、ずっと付きまとっていた。


「お母さんこそ……最近どうしてるの?」

「私の方も、いつも通り。仕事して、ご飯作って、洗濯して………でも、初の分が無くなったから、少し楽になったかな」


 ​─────ねえお母さん、それってどういう意味?


 そうやって聞けたらどれだけ良かっただろうか。

 私の口からは「そっか」という納得の言葉しか出てこない。

 そうして話すことの無くなった私は、わざわざ遠くの窓を見ながら、今ここで葵さんが迎えに来てくれたら許しちゃうだろうな、とかそんなことを考えていた。


 結局、というか当然葵さんは来なくて、私は一人で喫茶店から出る。

 薄暗かった喫茶店とは違い、空はどこまでも高くて青くて眩しい。私は深呼吸を繰り返す。これもコーピングの一つだった。

 そうして少し元気の出た私は本屋でエミリー・ディキンソンの詩集を買ってから、ようやく帰路に着いた。



 ▽



「葵さん、お話があります」


 その日の夕食の席で、私は葵さんに向かってそう口を開く。

 こうして口をきくのは久しぶりのことだったけれど、彼女は驚くこともなく、ただ箸を置いて「なんだ」と言った。


「私が三日前、デパートで言ったことを覚えていますか。恐喝だと言った時のことを」

「ああ、勿論。覚えている」

「私は​──私は、正直なところ、葵さんが私に謝ってくれると思っていました。葵さんが、自分のしたことに気がついて、謝ってくれると」


 葵さんは何も言わない。

 ただ、どこまでも続く水平線みたいな目が、こちらをじっと見つめている。


「でも、葵さんは何も言いませんでしたね。謝りもしませんでしたね。どうしてですか?」

「……それは、分からないからだ。お前の言う自分がしたことも、分からない。私がお前の行動を指摘して、それこそお前の言う通り『人質にとった』として​────それの何が悪いのか、理解できない」


 なんとなく予想していた答えとは言え、いざ口に出されると堪えるものがある。

 どうして人の不理解とは、こうも苦しいものなんだろう。

お母さんのことを思い出して胸が軋むような心地がした。


「悪いと思えないのに、謝ることは出来ない。それは初に対して、不義理だからだ。初の言うことを理解できていない私が謝るのはきっと簡単で、でもそれは……フェアじゃないだろう」


 でも、でもやっぱり、葵さんとお母さんは違う。

 葵さんは、私のことを諦めてなんかいない。私と話をしてくれる。ちゃんと目を見て、向き合ってくれる。


 そして、それがどれほど難しいことかを、私は知っている。


「……話してくれて、ありがとうございます。私、まだ怒ってますけど、でも無視するのはやり過ぎでした。ごめんなさい」

「謝りはするのに、許してくれないのか」

「許しません。許しませんし、葵さんに分かって貰えることを、諦めません」


 やっとスタートラインに立ったのだ、と私は思った。


「そうか」


 葵さんはぽつねんとそう言って、話は終わったとばかりに皿を持ってキッチンに向かう。

 私はその背中に、こう投げかけた。


「あの! その……夕さんに、おもちゃ屋で昔何を買ってあげたか、覚えてますか」

「ああ。覚えている」


葵さんは少しだけ微笑みながら、こう続けた。


「​─────魔法少女のステッキを、買ってやった」


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