第17話 色褪せた楽譜 ─side 朋之─
嫁を紹介されたのは、就職して五年ほど経った頃だった。本社勤務になって社長と接することも増え、俺の仕事は評価されていたらしい。
「山口君はいま、彼女はいるんかな?」
「いえ……」
「それなら、私の娘とお見合いしてもらわれへんかな? 会ってみて、もし嫌やったら断ってくれても良い」
高校、大学で付き合った女性は何人かいたが、当時は全く長続きしなかった。だいたい向こうから声をかけておきながら、離れていくのも勝手だった。俺に悪いところが無かったとは言いきれないが、不安にはさせないように接してきたつもりだ。
それでも俺が毎週日曜に予定を入れていたからか、デートが出来ない、と何回も怒られた。中学の頃から歌うのが好きで、高校のときに偶然、合唱団メンバー募集の広告を見た。地元にもいくつかあるのは知っていたが、俺は敢えて違うのを選んだ。
それが今のHarmonieだ。
当時はただのメンバーだったが、先にいた人たちが何人か辞め、いつの間にか古株になっていた。意見を頻繁に、問題点を的確に発していたせいか、井庭に指導を任されるようになった。
俺は合唱を辞めるつもりはなかったし、練習を休んでまでデートするつもりもなかった。それが噂で広がったのか──、やがてピタリと彼女が出来なくなった。
だから社長が娘を紹介してくれると聞いて最初は嬉しかった。
アルバイトの経験がなく大学を出てそのまま就職したらしいが、それは特に問題ではなかった。一般企業で事務をしていると言うし、仕事を嫌っている感じでもなかった。マナーもきちんとしているし、身なりも綺麗に整っているし、料理は苦手だと言っているがそれは徐々に慣れるだろうと思った。日曜は会えないことも理解してくれて、練習場所の近くに住んで良いと言ってくれて、やっといい人に出会えたかと思った。
間違いだとわかったのは、嫁が専業主婦になってからだ。
今までは自分の給料と社長からの小遣いを貰っていたらしいが、それは無くなった。その代わり、俺の給料で好きなものを買えと言ってクレジットカードを渡すと、何度も限度額を越えた。
「好きなもの買って良いって言ってたから」
「常識で考えろよ。使いすぎやぞ。家のローンも……社長が助けてくれたけど、まだ残ってるんやぞ。電気、ガス、テレビ、携帯……払えるんか?」
嫁からはクレジットカードを取り上げた。これだけのことで離婚するのは早いと思ったので、次に同じようなことをしたら終わりだと約束した。
嫁は反省したのか、しばらくは大人しく生活していたが──。
通帳の管理を任せていたのが間違いだった。普通にしていれば余裕で生活できていたはずの貯金が、ほとんど無くなっていた。
約束通り、俺は離婚の決意をして嫁を家から出した。
「山口君、うちの娘が申し訳ない!」
社長室に顔を出すと、社長が土下座する勢いで椅子から立ち上がった。
「いや、社長は何も悪くないんで、頭上げてください」
床に手をつこうとするのを何とか止め、ソファに座らせて俺も向かいに座った。
「娘がああなったのは、俺の責任や……贅沢させてきたから、抜けへんのやろうな。俺は離婚してくれて良いと思ってる」
「普段は何も問題なかったけど、お金の使い方が俺には無理でした。今日、離婚届を取って帰ります」
「ああ、わかった。書いたら持ってきてくれ。娘には俺が渡して、役所に出させる」
住んでいる家は一人には広いので、マンションに引っ越して家は社長に返すことにした。人事にはもちろん報告するが、嫁に場所を教えるつもりはない。
仕事はこのまま続ける予定だったので、社長と揉めたくはなかった。慰謝料を相場以上に払うと言われたが、それは断った。何も要らないと言っても聞いてくれなかったので、嫁が無駄遣いした分だけ請求することになった。
「あと、私のあとを継いでもらう話は──」
「それも、無かったことにしてください。俺はそんな器じゃないです」
社長は、わかった、と短く言って最後にもう一度、俺に頭を下げた。
社長に預けた離婚届に嫁は渋々サインしたらしい。役所に届け出るところまで、社長は見届けたらしい。
「しばらく気楽に暮らせよ。俺らもたまに遊びに来るし。な、紀伊?」
「えっ、私も? まぁ……たまになら……」
俺は近くにワンルームマンションを借りて、荷物は少なかったので美咲と裕人が引っ越しを手伝ってくれた。俺は数日の休暇を申請して、裕人が休みの月曜日と重なった。
「それにしても、不思議やなぁ。俺、中学のとき……トモ君ともそんな仲良くはなかったよなぁ」
「そう、やな……。高井とよく一緒やったよな?」
「そやねん。三年とき一緒やって、紀伊もおったよな? あいつ、うるっさかったよなぁ」
なぜか高井佳樹の話題になって、いま何をしているのか気になって裕人が同窓会で教えてもらったSNSを見た。けれど更新頻度は低いようで、『同窓会行ってきた』の報告で終わっていた。
「同窓会って四月やったから、五ヶ月前よなぁ? 連絡はしてないん?」
美咲が聞いてきたけれど、裕人も俺も同窓会以来会っていないし、連絡をとる用事もない。裕人は佳樹と同じ高校だったけれどクラスは別で、俺はそもそも違う高校だった。大学も全員違うところで、接点はなかったらしい。
「あ──そうや、思い出した、あいつ出張で海外行くって言ってたわ。確か」
「そうや、言ってたわ。同窓会のあと……飲みに行ったとき聞いたな」
俺と裕人は、ははは、と笑いながら佳樹の話を続けた。美咲も一緒に笑ったけれど、なぜか彼に会おうという話にはならない。
俺が裕人と話す視界の隅で、美咲は俺の荷物の中から楽譜の束を見つけた。今までに貰ったものを全てまとめていて、順番に重ねてある。
パラパラとめくって最後のほうで手を止めた──ということは、古ぼけて色褪せた楽譜を見つけたのだろうか。二十年ほど前に篠山がくれた藁半紙のコピーは、美咲にも見覚えがあるはずだ。
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