第16話 可愛くしたつもり
翌日、美咲はいつも通りに練習に参加した。コンサートが近づいているので帰りが遅くなるかも知れない、と航には話しておいた。実際、秋のコンサートは出演する中で一番大きいステージのようで、この時期はいつも練習が増えるらしい。
部屋に入ると既に朋之の姿はあった。けれどいつもの元気はもちろんなく、離れたところで椅子に座って項垂れていた。
「井庭先生……山口君のこと、聞きましたか?」
美咲が聞くと、井庭は首を横に振った。
「何かあったんか? って聞いたんやけど……小山さんに聞いてくれ、って」
「え……」
話は本人から聞いているけれど、どこまで話して良いかはわからない。そもそも朋之は何も悪くないので落ち込むことはない。と思うけれど、黙って大金を使われたことと離婚を決意したことで精神的に参っているのだろう。
美咲は荷物を置いてから朋之のそばに行った。
「山口君、大丈夫? 昨日、寝れた?」
「あ──昨日な……ヒロ君とこに泊めてもらってん」
美咲と別れて楽器屋に行ったあと、二人で飲みに行ったらしい。初めは今後のことを相談していたけれど、やがて朋之は酔いが回って裕人に愚痴をこぼし始めた。一人で家に帰らせるのは無理だと判断した裕人は家に連れて帰った。
「午前中に家帰ったら、前に嫁がおってさ。入れてくれ、ってうるさくて……せめて荷物を運びたいって言うから入れたんやけど、詰め終わっても出ていかんから口論になって……社長に来てもらった」
「大変やったんやなぁ……」
「金銭感覚がどうも合わんな……。社長も謝ってくれたけど、明日ちゃんと話すわ。家のことも決めなあかんし」
さて練習するか、と朋之は立ち上がったけれど、すぐにふらついてしまった。バタッと音がして朋之は倒れた。
「えっ、山口君?」
「ははは……情けないな……」
起き上がってはこないけれど、意識はあるらしい。
「おい、どうした? ちょっと休んどけ、今日は私がやっとくわ。小山さん、頼んだで」
慌ててやってきた井庭は口早にそう言うと、メンバーを集めて練習を開始した。井庭はメンバーを朋之が見えないほうを向かせた。
何か枕になりそうなもの、と部屋を見渡して、美咲はジョイントマットを見つけた。何枚か重ねてから持っていたタオルを巻いて、朋之の頭の下に入れた。
「ごめんな。ちょっと休んだら起きるけど……あとで……井庭先生に話しといてもらっていい? 簡単にで良いから。あ、みんなには黙っといてな」
「うん……わかった」
美咲は井庭に断ってから一旦公民館を出て、近くの自販機で栄養ドリンクを買って戻ってきた。それを朋之の見えるところに置いてから、井庭に事情を簡単に話した。
「そうか……。山口君、結婚決まったときは嬉しそうにしてたんやけどなぁ。何年か前も落ち込んでて……。苦労してたんやろなぁ」
朋之は体を起こし、壁にもたれて座っていた。美咲と井庭が話しているのを見ながら、栄養ドリンクを手に取った。
「子供はおらんかったよな。おったら親権で揉めるからな……」
良いタイミングだっただろう、と井庭は続ける。
「小山さんも、まだやな?」
「はい……」
「あ、出来たら絶対言うてや。無理させられへんし」
ありがとうございます、と美咲が返したとき、朋之は二人のところへ戻ってきた。表情はあまり変わっていないけれど、さっきよりはましだ。
「小山さんに聞いたよ。今日は元気出されへんやろし、耳だけ仕事しといて」
今の朋之に歌う力はない。無理をしても音を乱すし、そんなときに練習してもあまり意味はない。
朋之はメンバーが練習するのをじっと聴いていた。楽譜を見ながら強弱を確かめ、ときどき歌を止めては言葉が聞き取りにくいところを何度も練習させる。仕上がってきた頃に美咲の伴奏をつけ、最初から最後まで通す。
「あの……最初の〝おーい〟が、どうも〝ふぉーい〟に聞こえる。しんちゃんみたいやから、もっとはっきり。ごめん小山さん、最初から……」
一部メンバーからの笑い声が消えるのを待って、井庭は指揮を構える。美咲は井庭が右手を上げるのを見てからピアノの音を鳴らす。前奏が終わって最初の〝おーい〟は──、さっきよりは綺麗に聞こえていたと思う。井庭も朋之も止めなかったので、そのまま最後まで弾いた。
普段の練習は朋之が指導しているけれど、ステージに立つときに指揮をするのは井庭だ。朋之が上手く指示を出すので代表交代の話を冗談混じりにしたけれど朋之にはその気は今はないらしい。
「なぁ、紀伊さん……次の土曜日、付き合ってもらって良いかな? 来週にはたぶん歌えるから」
練習が終わって美咲がピアノを片付けていると朋之が聞いてきた。
「あ──うん、良いよ」
朋之は美咲に、スタジオでの歌の練習に一緒に来て欲しい、と言ったのだけれど。
「山口君と美咲ちゃんって付き合ってるの?」
話の一部だけを聞いて勘違いしてしまった女性が数名。二人で話していることが多かったからか、そういう風に見えていたらしい。
「違いますよ。二人とも結婚してるし」
「俺が今日はこんなんやから、自主練に来てもらえるか聞いただけで……。同窓会なかったら中学の時の記憶で止まってたしな」
「うん。当時はそんなに仲良くはなかったし……」
美咲と朋之が話すのを聞いて、女性たちは『勘違いしてごめんねぇ』と笑いながら部屋を出ていった。当時はそんなに仲良くはなかった──けれど、美咲は朋之が好きだったし、裕人が言っていたことが本当なら両片思いだったことになる。
なんとなく朋之を見づらくなって、黙ってピアノを片付ける。蓋を閉じて最後にカバーを掛けて、自分の荷物を持った。振り返ると、朋之が荷物を持って美咲を見つめていた。
「……どうかしたん?」
「いや──、〝さん〟って付けたら他人行儀やなぁと思って……〝ちゃん〟もおかしいしな……」
「別に何でも良いよ」
「じゃあ──きぃ」
字面だけ可愛くしたようだけれど、発音は旧姓と全く変わらない。なんじゃそりゃ、と笑いながら公民館を出る。
朋之は今日は敢えて電車で来たようで、最寄りの駅まで一緒に帰った。別れてからHair Salon HIROの前を通ると裕人が客を見送っているところだった。あいつ大丈夫そう? と聞いてきたので、たぶんね、と答えた。
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