第18話 知らんけど
「そういえば俺もやけど、紀伊ってほとんどトモ君と話してなかったよな?」
美咲は見ていた楽譜を置いて裕人のほうを見た。
「うん……大倉君とはよく話したけど……山口君と話すのはごく稀やった……」
「そうやった? 記憶のほとんどにきぃがおるんやけど」
それは美咲も同意見で、中学といえば朋之が浮かんでくる。もちろん当時の親友だった彩加や篠山との記憶もあるけれど、一番多くの思い出があるのは裕人で、その次が朋之だ。彩加とは仲良くしていたけれど、性格が合わないなと思うこともあった。
「学校で席近いとき多かったし、塾も学校みたいなメンバーやったから……話の輪には入ってたね」
「ああ、そうか。塾で席自由やったとき、よく俺の前にいたよなぁ」
「いや──それは違う、逆。私はっきり覚えてるんやけど」
学校の定期テスト前には塾で対策授業があって、クラスは学校別で席も自由だった。美咲はいつも彩加と一緒に早くに到着していて、まだ誰もいない教室で好きな席に座った。三人掛けの長机で、美咲は壁側に入った。
自習したりしているうちに他の生徒達がやってきて、教室の外から知っている声がした。先頭で入ってきたのは朋之だった。どこに座るつもりだろう、と見ていると彼は美咲の後ろに滑り込んできた。
「しかもあの日……休み時間に立とうと思ったら、椅子のとこまで机が来てて立たれへんかったし」
そんなことが何度かあったから、美咲はよく背中に朋之の視線を感じていた。学校で同じクラスだったときは美咲のほうが後ろに座っていた──けれど、授業中も雑談が絶えなかった当時は彼は後ろを向いて遊んでいた。
「そういうことやで、トモ君。知らんけど」
裕人に言われて
「逆に私、二年のときの大倉君の記憶があんまりない」
「ええ……」
クラスメイトの男子たちは休み時間は走り回って暴れていたけれど、裕人はいつも塾の宿題をしていた。テストのやり直し、天声人語の書き写し、数学の計算。そしてそれが終わったら、チャイムが鳴るまで机で眠っていた。
「あのとき俺らこんなんやったら、別の人生やったやろな」
意味深に笑いながら裕人は床に置かれたローテーブルの前に座る。作業が一段落ついてあとは細かい片付けなので、朋之がコーヒーを入れてきてくれた。三人でテーブルを囲って話を続けた。
「なんか、トモ君と紀伊、楽しそうやよな」
「……そうか? いろいろ大変やけどな」
「たまにスタジオ借りて練習してんやろ? 俺もそんなんやってみたかったな」
二日前の土曜日の午後、美咲は予定どおり朋之と一緒にスタジオへ練習に行った。初めは朋之は元気がなかったけれど、発声をしているうちに笑顔が戻ってきた。いつも朋之はギターを持ってきていたけれど、この日はそれはなかった。
『コンサート近いから集中するわ』
一週間前の練習での自分の発言を思い出しながら、一通り歌ってみる。上手くいかないところを繰り返し、美咲のピアノの音と合わせてみる。
『きぃ、ごめん、今度こっちお願いして良い?』
朋之は別の楽譜を出して、弾いて欲しいところを美咲に伝えた。
ゆっくり出来る時間が減って大変ではあったけれど、美咲は久々の伴奏を楽しんでいた。同級生や恩師との付き合いがまた始まったことがとても嬉しかった。
『そうや、次のコンサート……篠山先生とこも出るらしいで』
『へぇ……まぁ、そうやろなぁ』
歌のレベルを比べれば、向こうのほうが遥かに上だと思う。もしも次のステージがコンサートではなくコンクールだったら、間違いなく賞を取っていくはずだ。プログラムには指揮と伴奏の名前も載せられるので、美咲に気付く人が何人かいるかもしれない。
『気になる?』
『うーん……なれへんことはないけど……』
もし美咲がフェードアウトしていなかったら、違う立場でステージに立っていた。井庭ではなく篠山の指揮を見て前を向いていた。
『俺は──きぃは仲間やって信じてるで』
美咲は主にピアノ担当なのでなかなかメンバーと馴染めなかったけれど、パートごとにピアノと合わせたりしているうちに話をしてくれる人も増えた。朋之と同級生だと知って、そっちに興味を持った人もいた。
メンバーは指揮を見るのはもちろん、ピアノの音も耳で追っている。美咲がぶれてしまっては歌もまとまらない。
朋之のその言葉のおかげか、前日の練習では何かが違うと感じた。いつもより音が綺麗になって、井庭もメンバーの
「次の日曜が本番やけど……ヒロ君は仕事よな?」
「うん。知らんかったから予約入ってるし……。あっ、そうやおまえら、あ──トモ君は別にええか、紀伊の髪のセットしたるわ!」
「えっ、良いの? 簡単にハーフアップくらいで考えてるんやけど」
「ええよ。自分でやりにくいやろ?」
裕人や朋之と再会できて本当に良かったと思う。小山航と結婚して、佐藤華子と親戚になって、同窓会に出席して大正解だった。
彼らと親しくしていることを美咲は航にはあまり話していない。朋之に誘われて合唱団に入ったことや裕人の美容室に通っていることは話しているけれど、美咲が家事をきちんとしているせいか航も聞いてこない。もちろん──二人のことが好きだったなんて、誰にも話していない。
それでも時々、裕人の発言が意味深に聞こえるのは気のせいなのだろうか。美容室で聞いた過去の事実も気になって余計に考えてしまう。
「土曜日もピアノ頼むな」
「え? 土曜?」
「本番前の最後の練習、仕事の人もおるやろうから夜にやるって、言ってたよな?」
「あ──うん、聞いてる聞いてる」
夕方の中途半端な時間からだったので、航の夕食は美咲が用意してから行くと行ってある。美咲は練習が終わってから、井庭や朋之と打ち合わせを兼ねて食べに行く予定だ。
もしも中学のときに仲が良かったら、どんな人生を送っていたのだろうか。
もしも十年早く再会していたら、何かが変わっていたのだろうか。
もしも……それを伝えてしまったら……。
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