妻のお味噌汁が飲みたいので、帰してください。
俺はサラリーマンだ。
商社に入社して2年、今日も、外回りでどれだけ歩数を稼ぐだろうか、とスマートウォッチの健康管理画面に目を落としていた。
次に顔をあげたときには、風景が一変していた。半径5メートルの円に模様が
一人の老人が、感極まった様子で口を開いた。
「おお、勇者よ。よくぞ……」
「人違いです」
「この世界を救……」
「他を当たってください」
仕切り直されても、俺の回答は変わらない。
「我々は伝承に従い、勇者であるそなたを召喚して……」
「これって、拉致ですよね? 拉致された人間が、そちら都合の要求に、素直に従うとでも?
その伝承とやらは何百年前の情報ですか? そちらの事情を知らない人間に、世界の命運を預けるなんて非現実的でしょう」
「しかし、そなたには召喚されたときに神から……」
「存じ上げません。お力添えできません」
「勇者になれば、富も名声も思いのままで……」
「この世界の富や名声に価値はありません。妻がいない世界に興味は欠片もないので、帰してください」
妻は、就職したばかりで将来性もわからない俺と結婚してくれたんだぞ。
「まさか、帰す方法を用意していないとかないですよね? 仮に勇者になったとしても用が済むか、都合が悪くなったら返品できるよう保険をかけているものでしょう」
アプリの起動にすら、利用規約の同意がいる現代日本人を嘗めないでもらいたい。
「だが、本来は……」
「俺は妻のお味噌汁が飲みたいんです!」
「は?」
「明日は金曜日で、具が俺の好きなじゃがいもとタマネギなんです。もうひとふんばりができるようにって!」
早起きして味噌汁を作ってくれる妻の優しさは女神級だ。俺はいつも味噌汁の香りで目覚める幸せを味わっている。
俺の幸せを奪うとは許さない。
「ここにいても何もしませんよ。今すぐ帰してください。さぁさぁ!」
アフターサポート部門にいる同期から、厄介なクレーマーの手法は聞いている。妻の元に帰るためならば、クレーマーにだってなってやる。
老人は苦渋の表情で唸り、ついに決断した。
先ほどと同様、一瞬で風景が変わった。目の前には、出ようしていた玄関のドアが。背後からパタパタと足音が近付く。
「
忘れ物を届けてくれた妻に、俺は抱きつく。
「ゆかりー、ただいま」
「えー? いってきますでしょー」
変なの、と笑う妻。
うん。これが俺の守りたい世界だ。
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