百二十七話:希望の光
その日はいつもと違っていた。
「……怪物がいない?」
雲一つない青い空。
世界が変わってしまってから我が物顔で街を跋扈する怪物の姿が見えない。
奇妙な鳴き声を上げ獲物を探す魚頭の怪物。
鋭い爪は人の肌を簡単に切り裂く。
醜悪な見た目通り、その行いも残虐だ。
捕まった人々は邪神の生贄の儀式に使われる。
「逃げるチャンスか?」
『千棘のマーマンロード支配地域』の中にある住宅団地。
市営住宅団地であり同じようなマンションが連なっていた。
かつては多くの人たちが住んでいたが、少子化と老朽化で住民の数は減っていた。
そのせいか住民同士は顔見知りが多く、この極限の状況下でも協力して生き延びてきていた。
「逃げる? どこに?」
「……」
しかしそれも限界だった。
水と食料は底をつき精神的に追い詰められている。
のどの渇き。空腹の苛立ち。清潔とはほど遠い生活。
電気もガスも水道も使えない。
外敵のストレスに怯え、顔見知り程度の隣人と暮らす日々は限界を超えている。
「東雲東高校にいこう」
「どうして?」
「あちらに向かった魚頭たちが帰ってこなかった」
屋上から魚頭たちを観察していた男が言った。
魚頭たちの移動が一番激しいのもそちらの方角だ。
なにかが起きている。
逃げるならそちらに賭けるしかない。
「無理よ……」
「大丈夫」
男は女の手を取り言葉を掛ける。
「きっと、大丈夫」
それは自分に言い聞かせるようだった。
僅かな荷物だけを持ち生き延びていた人々は移動を開始する。
反対の声もあったが、どのみち限界だった。
水も食料もないのだ。
干からびて死ぬか怪物に殺されるかの違いだ。
「いないわね」
「ああ」
魚頭たちは朝から夕方にかけて活動する。
では夜に逃げればよかったのではと思うが、夜は引きこもり周囲を警戒していたので無理だ。
今日のように姿が見えないということはこれまでは一切なかった。
「不気味だわ」
「……」
人も怪物もいない住宅団地をゆっくりと進んでいく。
なるべく音を立てないように。
だいぶ弱ってしまった足腰に鞭を打ち進んでいく。
車の後ろ、植木の影、家の隙間、あらゆる死角を警戒し進んでいくが一匹もいない。
まるで悪い夢であったかのように消えいている。
ただ怪物の住処だけは残っていた。
趣味の悪い祭壇もだ。
「はぁ、はぁ」
「頑張れ、あと少しで公園がある」
市の広報で読んだことがある。
そこにいけば水も食料もあるはずだと、男はみんなを励ました。
あと少し。
希望の光が見えてくる。
「はぁ、はぁ……」
あと少し……なのに体が重い。 言うことをきかない。
震えが止まらない。
心臓を鷲掴みにされたような重圧が足を前に進めることすら許さなかった。
「うぅあ」
「あっ、あっああ」
ある者は涙を流し蹲り、ある者は嗚咽から嘔吐する。 吐き出すものすらないのに吐き気がとまらない。
振り返ってはいけない。
そこにいる。
絶望がそこにいる。
「う、うああああああああ!?」
巨大な魚頭の怪物。
鶏冠のような大きな背鰭は刺々しい。
青緑色の体色。 上半身の胸板は厚く巨大な筋肉に覆われている。 短足なのだろう足は短く太い。 上半身は裸であり複数の装飾品を身に着けている。 下半身は腰蓑だけだ。 しかし粗末な物ではなく民族的な意匠が施された質の良さそうな物である。
「ギィ」
赤黒く光る瞳が獲物を捕らえ、その手に持っていた白い槍を天へと投げた。
どこかその動きは重く不快なようだった。
「ああああ」
天へと投げられた白い槍は青い空に溶け、深海を泳ぐ小魚の群れのように、無数の死の矛となって降り注ぐ。
「いやぁあああああああああああああああああああああああああああ!?」
絶叫が響いた。
終わりだった。
必死に生き延びてきた人々の命は儚く一瞬で消滅するだろう。
「だれかっ――――」
男は錯乱した女を抱きしめ願う。
誰か助けてくれ。 頼むどうか、俺たちを、彼女だけでも。
強く強く腕の中の女性を抱きしめた。
魂の限り、あらん限りの懇願は、――――届く。
「ああ」
男は幸運だった。
いや生きることを諦めず観察を続けた努力が実ったのだ。
颯爽と
馬の嘶きを響かせるトライクは漆黒の輝きを吹かせ、間に割って入った英雄は大楯を持って降り注ぐ無数の矛を防いだ。
大きな背中だった。
混乱する人々を落ち着かせる筋骨隆々な背中は語っている。
俺に任せろと。
希望の光が輝いている。
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