一月一日 蟹の押し寿司
「いや、うん。まあ、うん」
「先生、何ですか?」
「いや、うん。まあ、いいんだけどね」
幸運な事に風がないとはいえ、とても寒い元旦に学校の屋上で過ごしている人なんてどれほど居るのだろうか。
先生はふと詮無い事を考えた。
自分たち以外居ないだろうとの答えを即導き出せるのに。
四方壁があって二方に天井と床があり、暖房器具が常備してあるお部屋でぬくぬくと過ごしたい。
そう思わない事もない。
寄る年波に勝てなくなってからは尚更。
けれど、場所を移動しようとは言わなかった。
いくら身体に堪えようとも、元旦にはここでこの生徒と過ごしたいのだ。
『先生には大変お世話になったので、私が人並みに稼げるようになったら蟹の押し寿司を奢ります』
だったら学校の屋上で食べるか。
そう提案したのは先生で。
生徒は約束通り、十二年後に片手で持ち運んで来た蟹の押し寿司をドヤ顔で見せつけた。
先生は笑おうとしたのに、どうしてか滂沱の涙を流していた。
それから先生と生徒の毎年の元旦の恒例行事となった。
生徒が先生の家に行って、先生の奥さんに見送られて、徒歩十五分の学校に行き、事情を知っている警備員の人から屋上への鍵を受け取り、外階段を上って屋上の鍵を開けて、コンクリートの地面に直に座り、お寿司屋さんで買った蟹の押し寿司と一緒に入っている手拭きをどちらかが手渡し、蟹の押し寿司を包んでいた風呂敷を二人の間に置いて、その上に蟹の押し寿司を置いて食べるのだ。
取り皿も箸も必要なし。
手づかみ手皿で十分だ。
じゅわりと。
絶妙に入り混じる蟹の甘味と海の塩気が水分を伴って、口いっぱいに押し寄せて身も心も翻弄したあとに、柔らかな酢飯がまあまあ落ち着きなさいよと身も心も安定させてくれる。
「毎年毎年、美味しいままってのはすごいなあ」
「そうですよね。ずっとこの美味しさが味わえるなんて奇跡ですよね」
生徒は持参した水筒のコップを外して熱い緑茶を注いで一口仰いだ。
先生も同じく持参した水筒のコップを外して、インスタントおすましを注いで一口、二口と仰いだ。
「美味しいなあ」
「美味しいですね」
お互いに話したい事は、先生の家に帰ってから。
暫し、否、少しの間、学校の屋上と蟹の押し寿司を堪能するのであった。
(2022.8.6)
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