第18話 デジャヴ

月末の繁忙期最終日を終えて、飲み会の誘いも断り早々に家路に着く。


真里菜には今から帰るから、と連絡をしておいた。


2日続けて午前様だったので、今日位家でゆっくりしたい。


平日に詰め込んだ事務処理のおかげで、土日は二日とも休めそうだ。


この一週間の疲れを癒すべく、一番効果のある人間のもとへと急ぐ。


改札を抜けた所で愛妻からメールが来た。


”昨日よりずっと早いね!”


”死ぬほど働いたよ。疲れた”


”お疲れ様。気を付けて帰って来てね。週末はゆっくりできそう?”


”土日は完全にオフ”


”すごーい!残業頑張ったもんね、ご苦労様”


”行きたいところある?”


”隼人の元気回復したらでいいよ”


”それなら大丈夫”


何度かのやり取りの間に電車が来た。


真里菜が傍に居ればすぐに疲れなんて吹き飛んでしまう。


顔を見るだけで安心する。


柔らかく微笑む真里菜の顔が脳裏に浮かんで、尚更恋しくなった。


これまで付き合ってきた女の子も、みんな可愛いと思ったし、大切にしてきたつもりだ。


それでも、真里菜だけはどこか特別に思う。


付き合うまでの時間が長かったせいか、なかなか真里菜の本音が聞けなった事もあって、妻に対してはいつも愛情確認をしてしまう。


自分で不思議な事に、真里菜が一言”好き”と告げれば、それで満足してしまうのに、その一言が聞けないと途端不安になるのだ。


学生時代からモテるほうだったし、自慢じゃないが女子に不自由した事は無い。


優しくすれば、大抵の女の子は自分を好きになったし、告白してきた。


自分から問うまでもなく”河野くん、大好き”というセリフが繰り返し聞けた。


そういう河野の価値観をぶち壊した存在が真里菜だった。


どれだけ優しくしてもなびかない後輩。


いつも一定の距離で”先輩と後輩”という関係を壊そうとしない。


そのくせ分かりやすい視線だけは一心に向けられる。


それならばと河野が踏み込めばすかさず一歩引いて距離を取る。


それが真里菜だった。


だから、付き合って、いや、結婚して、恋愛した後も、こうしてたびたび彼女の言葉を欲しがってしまうのだ。


ホームに滑り込んできた電車に揺られながら、真里菜の”おかえり”のセリフを反芻する。


馬鹿みたいな単純作業でも、たまらなく幸せを感じられる。


家に帰ればあの笑顔を独り占めできるのだ。


河野は心底結婚して良かったと思った。






「おかえりなさーい」


一瞬デジャヴかと思った。


馴染みの駅の改札を出て、中央口の階段を降りると同時に目の前から真里菜の声がしたのだ。


思わず立ち止まった河野の視線の先には、こちらに向かって手を振る妻の姿がある。


「え・・・どうした?」


「どうしたって、迎えに来たのー。ほかに駅に用事なんてないでしょう?」


「そ、そうだよな」


「なんでそんなにびっくりしてるの?」


腕を絡めてきた真里菜を見下ろして、河野が小さく呟く。


「早く真里菜に会いたいって思ってたら、目の前に居たから・・・」


「え、やだ!河野さん、何言ってるのっ」


慌てた真里菜が思わず昔の呼び名で夫の腕を叩く。


赤くなって横を向いた妻の頬を優しく撫でて、河野が微笑む。


「真里菜も河野さんだけど?」


「揚げ足取らないでっ・・・急に隼人が変なこと言うからっ」


「変な事なんて言ってないでしょ。事実だよ、まごう事無き事実だ」


サラリと告げて、河野が改めて妻の顔を見つめ返す。


「迎えに来てくれて嬉しいよ」


その言葉に、真里菜が照れくさそうに微笑んだ。


「真里菜も早く俺に会いたいって思ってくれたってことかな?」


「・・・改まって訊かないで・・・ください」


「なんでそこで照れるの?」


可笑しそうに笑って河野が真里菜の指を絡めて手を繋ぎ直す。


「二人きりだと素直だけど、あれは家の中限定かー。俺は、おかえりって抱きついて来てほしかったよ、いつもみたいに」


ただいまのキスは後の楽しみに取っておくからと、付け加えられて、ますます真里菜は赤くなる。


普段何気なくしている行為も、改めて言われると物凄く恥ずかしい。


「っ!」


返す言葉を失くして、真里菜はすっかり黙り込んでしまう。


そんな妻を優しい視線で見つめて、河野が見えてきたコンビニを指差した。


「すっかり熱くなった真里菜を冷ますために、アイスでも買って帰ろうか?真里菜が食べたいの、何でも買ってあげるよ」


「・・・2個でもいい?」


まだ赤い頬のままでちらりと上目使いに夫を見上げると、極上の笑みが降ってきた。


甘くて柔らかくて、女の子を虜にするとびきりの笑顔だ。


けれど、今その視線の先には真里菜だけがいる。


まるで物語のお姫様にでもなった気分だ。


真里菜にだけ聞かせる優しい声音で河野が答えた。


「いくつでもどうぞ」

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