第17話 俺に溺れてればいいと思うよ
家に帰るや否や、夕飯の支度中の真里菜を捕まえて河野が言った。
「俺って、真里菜の事分かってるよな!?」
「な、何、急に」
ビーフシチューの鍋をかき混ぜながら、真里菜が怪訝な顔で尋ねてくる。
話の意図が全く見えない。
そもそも、それはただいま、の前に言わなくてはいけない言葉なのか。
真里菜はコンロの火を小さくして、夫に尋ねた。
後は弱火で15分煮込めば完成だ。
タイマーをセットしながらキッチンの前で突っ立ったままの河野をちらりと見る。
「何かあったの?」
「いや、別に何もないけど、会社でちょっと話題になってさ」
「どういう話題?
あ、うちでの事変な風に話さないでねー?」
河野の仕事場がアットホームな雰囲気である事は知っている。
上司も部下も分け隔てなく仲が良く、飲み会も多い。
そういう場所で、家庭の事が話題に上るのは構わないのだが、自分の知らない所で、夫婦の事を色々話されていると思うとなんだか気恥ずかしくなってしまう。
そもそも、河野は自分を過大評価しすぎなきらいがあるので尚更心配になるのだ。
”真里菜は可愛いから心配だよ”
お決まりのように言われるセリフ。
学生の頃、友人たちから何度か言われた事があるが、自分はもう大人だし、結婚もしている。
彼が心配する必要なんて少しも無いのにと思ってしまう。
「変な風にって、何?嘘はひとつも言ってないよ」
さらりと言って河野がキッチンに入ってくる。
「昨夜の真里菜がいつも以上に可愛かった事は言ったけど」
耳元で悪戯っぽく囁かれて、真里菜は瞬間湯沸かし器並の速さで赤くなった。
「そ、そんな事言ったの!?」
「嘘じゃないだろ」
にっこりと微笑んで腰に腕を回される。
真里菜の肩ごしにコンロの上にある鍋を覗き込んで、嬉しそうに河野が目を細めた。
「いい匂いがする。俺の好きなビーフシチュー作ってくれたんだ?」
「お肉が、ね・・・安かったから・・・」
「ありがとう」
わざととしか思えない。
屈みこんだままで河野は唇を首筋へと滑らせる。
そのままで囁かれるから、真里菜は腰が砕けそうになった。
触れるか触れないか、微妙なラインでの囁きは、肌には届かず産毛を優しく撫でる。
「っ・・・と、とにかく・・・外で、変な事言わないでっ・・・」
懇願するように告げれば、河野が楽しげに瞳を揺らせた。
「奥さんの自慢もさせてくれないわけ?」
「自慢じゃないでしょ!それ!」
「俺にとっては自慢だよ。可愛い真里菜が家で俺の帰りを待っててくれて、この上なく嬉しい。おかげで仕事も頑張れるし」
チュッと音を立てて鎖骨にキスを落とされる。
真里菜の羞恥心をわざと煽る様に、河野の指は悪戯に肩から腕のラインと滑った。
意識しない様にしても、肌が粟立ってくる。
「も、もう、そういう事今言わないで!
お夕飯の準備してるんだから!」
「後は煮込むだけだろ?」
確かめるように言われて、真里菜が困ったように頷く。
サラダとカルパッチョは冷蔵庫だし、パンはテーブルにセットしてある。
ワインも冷やしてある。
もう準備するものは何もないのだ。
言い逃れ出来る状況ではない。
それでも必死になって真里菜が言い返す。
「で、でも、煮込む間も目を離せないの!」
お鍋は定期的にかきまぜた方が良いし、弱火にしているとはいえ、焦げ付かないか心配だ。
とにかく、料理は手間暇がかかるのだから。
と、思いつく限りの理由を並べたら、漸く河野が分かったよ、と真里菜を抱きしめる腕を解いた。
ホッとして、即座に真里菜が腕の中から抜け出る。
コンロの前に立つと、お玉で鍋をぐるりと混ぜた。
「今の間に着替えて・・・」
何とかキッチンから河野を追い出そうと提案した真里菜の意見を綺麗に無視して、後ろから河野が抱きしめてきた。
「じゃあ、俺も一緒にシチューが出来るの待とうかな」
「な、何で!?」
「何でって、真里菜と一緒に居たいからだよ」
俺、邪魔?と尋ねられれば頷けるはずもない。
夫の事は好きだし、愛されている事を嬉しくも思う。
けれど、寝ても覚めてもこの状況だと、どろどろの愛情に溺れそうになってしまう。
「お、落ち着かないんですけどっ」
「そのうち慣れるよ」
平然と言ってのけて、河野の唇が髪へと寄せられる。
啄む様なキスが頭のてっぺんから髪の先まで下りてきて、頬にも口づけられる。
「シチューの味見する前に、ただいまのキスさせて」
「・・・」
「何か言いたそうだけど?」
「どうしていいか分かんなくなるのっ」
河野を振り返って告げれば、彼が楽しそうに笑って唇にキスをした。
真里菜の瞳を覗き込んで決定打を告げる。
「俺に溺れてればいいと思うよ」
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