第9話 浴衣おめかし夏の夜

「真里菜、浴衣持ってるの?」


遊び疲れた土曜の夜。


ミュールで長時間歩いたせいでむくんだ足にミントの香りのデトックスシートを貼る真里菜の隣で、さっき風呂から出たばかりの河野が発泡酒の缶を開けながら訊いた。


禿げかけたネイルを塗りなおそうか真剣に悩んでいた真里菜は、唐突な質問に目を丸くして婚約者を見返す。


「え・・・昔のならあるけど・・?」


先にシャワーを浴びたので、ほとんど乾いている髪は、軽く梳いただけで綺麗に背中に流れていた。


いつものように、その髪を飽きもせず弄びながら、真里菜の手からマニキュアの瓶を取り上げてテーブルに乗せる。


「新しいの、買ってやるよ。明日見に行こうか」


尋ねている割に、全く疑問形でない。


そのうえ返事をする前に唇を塞がれてしまえばどうしようもない。


それでも、以前よりはずっと慣れた心地よいキスに溺れてしまいそうになる。


唇が額に触れるのを感じて目を開けると彼の手が首筋を撫でた。


それにしても・・・


「なんで・・・?浴衣・・?」


真里菜の疑問に答えるべく、河野は彼女の背中越しに、テーブルの上に乗せてあった情報誌を引き寄せる。


「花火大会行きたいなと思ってさ」


「花火大会?」


「そう、会社の近くで毎年あるんだよ。いつもは、サークルのメンバーですませちまうけどさ。今年は真里菜とふたりで行こうと思って」


「花火・・・見たいかも・・」


「だろ?中突堤の方まで出たらそんな混まないだろうしな・・・」


河野の腕の中で、何とか方向を変えて向い合わせだった体を前向きに直す。


覗きこんだ雑誌の見開きには大きな花火と浴衣美人のお姉さま。


着せてあげたいって思ってくれたのかな?


彼の気遣いが純粋に嬉しい。



「あ、でもお式の打ち合わせとか、色々」


ドレスもまだ決められていない。


なんせ急遽決まった内輪だけの結婚式なので、打ち合わせの回数は通常の挙式披露宴よりずっと少ないのだが、それでも式場には何度か顔を出さなくてはならない。


「一日位いいよ。式の準備でバタバタだろ?たまには息抜き。浴衣着て、花火見に行こう」


「はい」


「そのついでに、結婚指輪も決めようか。そろそろ頼んどかないとな。納期、ひと月は見ないとな。文字彫りもしたいし・・」


そう言って、真里菜の左手に指を滑らせる。


するすると薬指を撫でる指の腹がじれったいくらいくすぐったい。


「この手に似合う、ピカピカのリング探しに行こうな」


婚約指輪の上にそっとキスを落として、河野が目を細めて微笑んだ。




★★★★★★





「こちらのお色も人気ございますよー」


そう言って肩に当てられた淡いピンクの浴衣。


「んー・・・これよりは、さっきの藤色のがいいかな・・」


数歩後ろに下がって真里菜の全身を確かめてから、河野がそんな感想を口にした。


直立不動の真里菜の横で、まじまじと鏡を覗き込む。


女性店員の心底羨ましそうな視線は、ほんのちょっとだけ、優越感だ。


それにはまったく気づかずに、彼が店員の手から、藤色の浴衣を受けとって真里菜の前にかざしてみせた。


自然と、視線が彼の方に引き寄せられてしまう。


と、鏡越しに河野が笑う。


「こっちじゃなくて、ちゃんと正面向いて」


ううう・・・条件反射です・・


「あ・・・ごめん・・」


彼の反応が気になってしまうのは、彼女あるあるだと思うのだけれど。


どうしてか真里菜と同じように赤くなる店員にジェラシーを燃やしつつ、鏡へと向き直る。


「この浴衣なら、帯って何色ですか?」


「は、はい・・・鮮やかな紅色や黄色も綺麗ですしシックに紫紺で絞めてもよろしいですよ」


「飾り帯に、最近流行のこういった素材のものを一緒に使われても可愛らしいですし・・・」


呼ばれてもいない店員がシフォンの兵児帯を持ってきて浴衣の上から合わせる。


「お客様の柔らかい雰囲気に合わせるならこういった感じはいかがですか?」


藤色の浴衣に紫紺の帯、薄い白のオーガンジーの兵児帯。


鏡に映る真里菜は、いつもよりずっとおしとやかに見える。


浴衣マジックというやつだろうか。


河野が笑って頷いた。


「これにしようか」



★★★★★★




恥ずかしながら、自分で浴衣は着れません。


そう言ったら、南がピーチベージュで彩られた唇を持ち上げて、まるでCMの女優さんみたいに自信たっぷりの笑みを浮かべた。


「任せなさい。良い店知ってるの。着付けとヘアメイクも出来るところだから」




夜19時。


仕事帰りの河野と一緒にお店に向かう。


浴衣は歩きづらいからと車を出してくれたのだ。


忙しい仕事を縫って今日の為に時間を割いてくれたことがめちゃくちゃ嬉しい。


彼は車の中で一人はしゃぐ真里菜の髪をいつもより優しく撫でた。


「いまからそんなで大丈夫かあ?」




南からの口添えで予約を入れたお店は、駅から徒歩10分の路地裏にある、小さな美容室だった。


出迎えてくれた、ショートヘアの女性スタッフがさっぱりとした笑顔を浮かべる。


「南から話は聞いてます。吉田さんですよね? 」


「エリカさん・・ですか?」


「そうでーす。ご案内しますね、どうぞ。彼氏さんには何かお飲物ご用意しますね」


「すいません、あ、真里菜、浴衣」


そう言って紙袋を差し出す。


「いっけない!ありがと・・じゃあ行ってきます」


「うん、可愛くしてもらっておいで」


極上の笑みで見送られて、真っ赤になってこくんと頷く。


・・・無意識なんだろうなー・・・サラッとこうゆうこと言うんだもん。


こっちの心臓が持たないー・・・



紙袋を抱えて、チラリと隣のエリカを見る。


真里菜より、10センチ近く背が高い彼女は、南と同じ位背が高かった。


摘まめるお肉がどこにも見当たらないスレンダーな身体をぴったりとしたスキニーデニムとTシャツで包んだ彼女は凛としてカッコイイ。


短い髪がほっそりとした女性らしい首筋を綺麗に見せる。


綺麗な人だな・・・・・


思わず見惚れてしまったら、こちらの視線に気づいたエリカが苦笑交じりに言った。


「彼氏さん・・・極甘なんだねェ・・羨ましい」


「あ・・・あの・・・いえ・・」


「来月結婚されるんでしょ?南からさんざん聞かされたのよ。憧れるって」


「とんでもない!むしろ私の方があんな素敵な人になりたいくらいなのに・・」


「あー・・・まあ、見た目いいからねー昔っから・・・・でも、あなたも十分幸せそうだけど?」


エンゲージリングが嵌った左手を指されて、冷めかけた頬の熱が再燃した。


「はい・・・」


「さーて、じゃあ婚約者をあっと驚かせるくらい、綺麗に仕上げちゃいましょう」



そう言ってエリカは腕まくりをして着付けの準備を始める。


その左手には、真里菜たちが注文したものと同じ老舗ブランドの2連リングが光っていた。




どうやって結んだのか、まるで分からない


複雑な結びかたの帯と(蝶々結びをアレンジしてあるらしい)同じくピンで綺麗に纏められた髪。


ピンの先に小さな藤色の花が咲いている。


それを無造作に数か所さしてあった。


「やっぱりこの浴衣にしてよかったな。似合ってるよ」


雑誌を戻して立ち上がりながら、真里菜の姿を確認して河野が、あの笑顔で言った。


エリカがひょいと眉を持ち上げて、手扇で顔を仰いで見せた。


「予想通りの出来ですか?」


「予想以上です。お世話になりました」


エリカからの問いかけに穏やかに微笑んで、真里菜の手を取る。


受付を抜けて、店のドアを開いたところで河野が僅かに屈みこんだ。


「家なら抱きしめてるくらいに可愛いよ」


耳元で落ちた甘ったるい声に、槙元まで真っ赤になる。


お気を付けて、とエリカに見送られて車に乗り込むまでの間、真里菜は顔を上げる事が出来なかった。




★★★★★★






次々打ち上がる花火を見上げたまま河野は真里菜の手を離さない。


みんなが夜空を彩る花火に夢中なのをいいことに、緩く抱き寄せられる。


帯のせいでぎゅっと出来ない代わりに唇が耳たぶに触れてた。


キスの予感に目を閉じかけて、我に返る。


そこもここも人だらけなのだ。


視線で咎められた河野が肩をすくめた。


「誰も見てないよ」


不貞腐れた彼の唇がそっと頬を擽って離れて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る