第5話 小指の魔法

一瞬空耳かと思った。


「けけけっ結婚って・・・なに考えてるんですかっ!!」


あまりのことに、思わず声も上ずってしまう。


こっちの動揺をよそに、河野は真里菜の髪を何度も指に絡めては解いて楽しそうに言った。


「何って・・・そのままのことだよ。俺は真里菜にごめんなさいを言うつもりは無いし、付き合うなら結婚したいし」


背中を撫でる手のひらはあやすように、懐柔するように、真里菜の心を絡め取るように上下している。


せめてもう少し距離をと後ろ足を引いてみるも、ものの数秒で隙間を埋められてしまった。


肩口に頬をがぶつかって、ぎゅううっと抱きしめられる。


「い・・勢いでそんな勝手なこと言わないでください!」


とにかく一刻も早く離れたくて、河野の肩を押してみる。


けど、今度は反対に顎を捕えられた。


間近に迫る彼の眼には、不安げな表情の真里菜がはっきり映っている。


強く目を閉じたら、瞼に唇が触れた。


目を閉じるのは失敗だったと即座に後悔したけれど、かと言って目を開けたままでいられたかと問われれば、答えは否。


もうすでに真里菜の思考回路はパンク寸前だ。


「勢いで言えるかよ」


「こ・・河野さ・・」


「これから先の一生を左右するってのに勢いなんかで言えるわけないだろ・・・この間、別れてからずっと思ってたんだ。あの時、手を離すんじゃなかったって。あんなあからさまなヤキモチに気づかないなんて、俺もどうかしてるよな・・・ちょっと働き過ぎだな」


仕事忙しくてさぁ、とこの状況で愚痴を零せる彼の神経を疑いたくなる。


心地よさげに頭に頬ずりする河野の機嫌は間違いなく絶好調だ。


「やきもちじゃありません!」


「じゃあなに?」


「羨ましかっただけです」


意を決して目を開けてみたら、やっぱりまだ河野の目はまっすぐこっちを見ていて。


とてもじゃないが、見つめ返すなんて出来ないので、即座に視線を下ろして俯く。


彼が飲み会の度に名前を出す、支店の事務員たちの事が死ぬほど羨ましくて、嫉妬したなんて絶対に認めたくなかった。


彼が営業職である以上アシスタント事務員は必須。


それがどんなに頼りになる女性でも、仕事上の付き合いなのだから、きっとそこには別の感情なんて挟まる余地はない筈だ。


筈、だけれど、月に2回会えるかどうかの、真里菜と違って女性事務員は毎日顔が見られるわけで。


河野は大学時代から、サークルの女子大生たちにかなり人気があった。


かといって男子大学生たちからやっかまれるわけでもない。


バランスの良い男だった。


他人の機微に敏感で、サークル内の人間関係を綺麗に把握しており、彼が立役者となって何組ものカップルが誕生した。


それくらい面倒見の良い男なのだ。


だから、彼と毎日のように顔を合わせておきながら、河野に惹かれないなんて考えられなかった。


きっと、アシスタント事務員は河野に恋をしているに違いない。


そして、彼もきっと彼女の事が気になっているのだ。


だってこうもしょっちゅう、広瀬さん、という名前が飛び出すのだから。


見知らぬ女性の名前ばかり口にする彼に苛立ちを覚えて、噛みつけば、さらりと自分の恋心を見抜かれて、逆切れをしたのが二か月前の事。


真っ赤になって叫んだ真里菜を前にしても少しも動揺せず、いいよと受けて見せた河野に死ぬほど腹が立った。


けれど、真里菜は酔った勢いで河野を呼び出し、見事に完敗したわけだ。


そんなごちゃ混ぜの真里菜の気持ちを受け止めた河野が、投げ返してくれたボール。


それがよりによって、好きとか嫌いを通り越して、どうしてプロポーズなのか。


しかも、相手はこの私!?


涙交じりの真里菜の反論に、眦を下げて幸せそうに微笑んだ河野が、ぽんと背中を優しく叩いた。


「よく名前が出て来る広瀬は同僚の彼女で、しょっちゅう惚気話を聞いてるから、つい名前出しちゃうだけだよ」


「同僚の彼女・・・?」


「そう、あれ、言ってなかったっけ?一緒に今の支店に移った秋吉。課内異動になった時に名前出しただろ?あいつの恋人なんだよ。ずいぶん長いことかかって纏まったんだけどな。その反動か喫煙所で顔合わせる度に惚気話が飛び出すんだよ」


河野がそう言って、まあ、俺も人のこと言えないかと小さく呟く。


えーっと・・・


「あの・・・河野さんが、広瀬さんが好きなんじゃないんですか?」


「人のモノになんか興味ないよ」


「えっと・・・河野さんって・・・私のこと・・・」


「だから、好きだよ。じゃなきゃこの状態になるわけないだろ?」


自分の気持ちを伝えるようにしっかり背中に回された腕。


心なしかさっきより力が強くなっているのは、多分気のせいではない。


「俺の気持ちに気づいてないのは、真里菜だけ。他のサークルメンバーはみんな知ってる。まさか二か月も音信不通になるとは思いもよらなかったけど・・・お前意外と頑固だよな。すぐに音を上げて連絡してくると思ってたのに、電話もメールもしてこないから、正直ちょっと焦ってた・・・」


「うそ!!」


彼の指摘にいつものサークルメンバーの顔が次々浮かんだ。


飲み会のたびに、河野が真里菜の隣に座るのは、みんなが真里菜の気持ちを知っていてわざとセッティングしてくれているんだと、ずっと思っていたのに。


あれ、ということは・・・つまり、自分たちは両想いなわけで。


めちゃくちゃ嬉しい言葉を聞いたはずなのに、なぜか恥ずかしさの数値が一気に上がってしまってますます顔を上げられなくなってしまう。


足の爪先を見れば、剥げかけのペディキュアと、着古した部屋着から伸びた保湿不足の膝小僧が見えた。


腫れた瞼に充血した両の目、きっと髪には寝ぐせが残っているに違いない。


こんな告白ってあり!?せめて、着替えて化粧させて!!


絶対に顔を見られてなるものかと、無意識にぎゅうぎゅう河野のことを抱きしめていたらしく、肩に顔を埋めていたら背中に回っていた腕をそっと解かれた。


「抱きついてくれるのも嬉しいんだけど・・・いまは顔見せてくれる方が嬉しいんだけどなぁ・・・俺昨夜寝顔しか見てないし。会えなかった二か月分、ちゃんと顔見せて。俺相当我慢したんだから」


「絶対いやです!」


「・・なんで」


不服そうな声が上から降ってくる。


「だ・・・だって、スッピンだしっ服こんなだしっ」


「真里菜、お前大学の頃ほとんど化粧してなかっただろ?もうなんべんも見てるよ」


大学入学後、厳しい校則から解放されて意気揚々とコスメコーナーに飛び込んで見たものの、元からはっきりとした顔立ちの真里菜は、化粧をするとかなり派手な顔になってしまい、すっぴん風メイクを何度か練習したが、結局不器用さが勝ってほぼノーメイクで通学していた。


「そういう問題じゃないです!好きって言うにしてももうちょっと時間とか場所とかっ・・・」


「そんなの考えてたらいつまで経っても真里菜を抱きしめられない」


「っ・・・だっ・・・で・・・でも」


「時間とか場所は関係ないだろ。これ以上、まどろっこしいことしたくないんだ。真里菜、俺のこと好きだろ?」


唐突に尋ねられて、思わず頷いてしまう。


「好き」


「じゃあ問題ないな」


話は終わりとばかりに、河野が真里菜の前髪をかきあげる。


ちょっと高めの温度の掌がゆっくり耳たぶの後ろを撫でた。


「眠ってる時にしなくてよかった」


額に甘やかすようなキスが落ちた。


絡め取った小指を甘噛みして、河野が微笑む。


何も言えなかった。


声が出なくて、息が苦しい。


深呼吸をしようと胸に手を当てたら、手首を掴まれた。


と同時に唇が触れる。


掬い上げるような、ほんの少しだけ強引なキス。


普段の河野からは想像もつかない仕草で唇を割られる。


顎を擽った指先が、首筋をそろりと撫でた。


自然と顔を上げることになる。


瞼に彼の髪が触れて、距離の近さに余計ドキドキしてしまう。


触れる唇が彼のものだと思うとそれだけで眩暈がしそうになった。


いつの間にか絡めていた指が熱い。


キスはどうしようもなく甘い。


ちょっと泣きたいような、切ないようなでも、それより胸が苦しい。


苦しいのに、離れたくない。



だって、キスしてないと、この人がほんとにここにいるのかさえ分かんない。


振り向いてくれるはずがないと思っていたから。



この人が、私のことを気にかけてくれるのはただ出来の悪い後輩が心配なだけだから。


過剰な期待は自分を苦しめるだけだと、ずっとそうやって気持ちを隠してきたから。


だから余計信じられなくて、一瞬だけ離れた唇をすぐに追ってしまう。


こんなにキスをねだったのは生まれて初めてだった。

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