第4話 優しい、と、嘘
バイブのままになっていたスマホがテーブルの上で震えている。
半覚醒状態で、おもむろに手を伸ばしてメタルピンクのスマホを引き寄せた。
いま何時なんだろう?
眠った記憶がないので、いつの間にかうたた寝してしまったのだろう。
・・・きっと実家からだわ・・・・・
母親の甲高い声を思い出して、げっそりするが、このまま電話を取らないと余計面倒臭いことになる。
「・・・・もしもしィ?」
アイスノンを外しながら、諦めて電話に出る事にした。
わ・・・眩しい・・・
視界が急に開けて、部屋全体が妙に明るく見える。
「家だろ?」
電波に乗って聞こえてきたよく知る声に手が震えた。
「こ・・・河野さんっ!?・・・う・・家じゃないですっ!いまそ、そと、外にいるんですっ」
とにかく今は、いや、当分、いや、やっぱりもう二度と会いたくない。
どれだけ全否定したって、二か月前のあの場所で真里菜の片思いはバレバレだったわけで。
その上泥酔状態で連絡してしまったのだから、もうどう頑張っても言い訳なんて出来ない。
一方的に絶交宣言しておきながら、未練たらたらな真里菜を、彼はどう思っただろう。
きっと呆れたに決まっている。
そして、後輩の報われない片思いに終止符を打つべくこうしてわざわざ足を運んで来たのだ。
目の前に迫る最後通牒に涙目になる。
このままそっとしておいてくれたら、片思いを続けられるのに。
真里菜のしどろもどろの言いわけに、彼は重たい溜息をついた。
「・・・バレバレの嘘つくなよ。あの状態で、お前がどっか別の場所に逃げ込めるわけないことなんて、ちゃんと知ってるよ」
・・・・・・お見通し・・・・
学生の頃から、いつも面倒を見てもらっていたので、こっちの行動パターンは筒抜けらしい。
裏を掻けるほどの知恵がない事が悔やまれる。
「あのっ・・・河野さん・・・」
とりあえず、こうなったら昨日のことをひたすらに謝って、なんとか水に流して貰おう。
そして、真里菜の気持ちに言及する前に帰って貰おう、そうしよう。
彼だって鬼じゃないのだから、後輩からの誠実な謝罪を前に無碍な態度は取らない筈だ。
言を継ごうとした真里菜のセリフを遮るように彼は言った。
「話は後で聞くから、とりあえず、鍵あけろ」
「は!?」
なんでだろう?
普段の彼はそうでもないのに、イザというときの河野の一言には、どうしたって逆らえない。
決して強い語調と言うわけじゃ・・・ないのに。
姉よりも活発で、姉よりも行動派で、姉よりも逞しい妹を持ったせいか、昔からちょっと抜けている、とか、危なっかしいと言われる真里菜。
だから、就職して暫くして、そろそろ実家を出て一人暮らしを始めたいと話した時も両親と妹の大反対にあった。
さすがの真里菜も、そうなる事は予想済みだったので、早々に部屋を決めて半ば強引に独り暮らしを始めた。
この時、真っ先に力を貸してくれて、真里菜の味方になってくれたのが河野だった。
便りなるサークルの先輩として吉田家でも信頼されている彼の後押しがあったから、真里菜は独立できたのだ。
とはいえ、家を出て、3年が経った今も毎週のように母親からは電話がかかってくるし、車で1時間の距離にも拘わらず、しょっちゅう救難物資並みの食材が届く。
そんなお身内の皆々様に心配をかけまいと、昼間でも家に居る時は必ずチェーンを掛けるように心がけている。
ここ最近物騒な事件も多いので、きちんと自己防衛しているのだ。
だから玄関に向かって、ドアを見たとき驚いた。
どんなにくたびれて帰っても、稀に酔って帰っても、絶対に掛かっていたチェーンが、掛かっていなかった。
自分がどれくらいパニック状態だったかひしひしと感じる瞬間だ。
このドアの向こうに、河野がいる。
無意識に大きく息を吸って、この後の事態に備える。
どうか震えないでと自分の足に叱咤激励を送りつつ、ゆっくりと、鍵を開けて、ドアノブを回す。
廊下の湿った空気が室内に入り込んできた。
「河野さん・・?」
見慣れた顔を見つけて、嘘みたいに泣きたくなった。
絶対に会いたくなかったはずなのに。
理不尽を承知で、もう会いません、連絡もしません!と意地を張った自分が馬鹿らしく思えて来る。
真里菜の顔を見て、彼がホッ表情を緩めた。
「・・ごめんなさ・・」
大迷惑をかけたこと、一方的に絶交宣言した事を謝ろうとしたら、右手が伸びてきた。
左目の下を優しく擦られる。
アイスノンで冷やしたけれど、やっぱり腫れているのかもしれない。
目尻を下げた彼が、少し呆れたような表情になった。
「泣いた?」
「!泣いてないですっ!!」
右手を振り払ってリビングに逃げ込む。
背中で小さな笑い声が聞こえた。
放り出されたままのアイスノン、飲みかけのグラスもそのまんま。
あ、そう思ってみたら部屋着のままだった。
完全休日モードだし・・・しかもスッピン・・・今更取り繕うような間柄でもないけど・・
真里菜はリビングに入ってきた彼をくるりと振り返って、キっと見上げる。
「なんで急に来るんですか!?」
自分のことは棚上げで憤然と言い放った。
せめてこれから行くよ、とかならもうちょっとまともな格好とまともな部屋で迎えられたのに。
いや、違う。
事前連絡が入ったら、喜んで家を飛び出して留守にした筈だ。
だから、彼は突撃訪問を選んだ。
確実に真里菜を捕まえるために。
真里菜の言葉に、悪びれることもなく河野が答える。
「お前が逃げたから」
「そ・・・それは・・・」
思い出したくもない昨日の失態が頭をよぎる。
「だ・・・だってどんな顔して会えば良かったんですか!?連絡しないって言い出したの私だし・・・っそれなのに、河野さんに連絡しちゃうし・・・わ、私、酔っ払って誰かの部屋で目が覚めたことなんて初めてだしっ昨日はお世話になりました、なんて平気な顔で言えません!!」
迎えに来させた相手を前に、お礼の一言も言わずに逃亡するのは社会人としてはどう考えても褒められた行動ではないけれど、それはこの際棚上げしておく。
「それより先に言うことあるだろ?」
河野は、そう言って突っ立ったままの真里菜の腕を掴んだ。
咄嗟にさっきのように振り払おうとしてしまう。
この人に甘えちゃいけないと思うのはもう癖みたいなものだ。
後輩を無碍に出来ない彼の優しさに付け込むような事はしちゃいけない。
この状況で彼に言える事なんて何もなかった。
黙り込む真里菜の頭上で溜息が聞こえたと思ったら。振りほどけるくらい、緩い力で抱き寄せられる。
まるで真里菜が本当にここに居る事を、確かめるみたいに。
そっと背中に回った腕が、暖かくて、そんな当たり前のことに、ホッとする。
・・・ってだめでしょ!!ホっとしてる場合じゃなくって・・
それでも、腕を解くことは出来なくて、かろうじて凭れかけた頭を引き戻す。
視線を合わせることは・・・やっぱりできない。
「・・・迷惑掛けたことは謝ります・・・ほんとはっ・・・河野さんのこと呼ぶつもり無かったんです。酔ってて・・・その・・・ごめんなさい・・」
「謝んなくていいから」
「じゃあ・・なにを・・!」
言葉の続きは喉で引っ掛かって出てこなかった。
瞼に影がかかって、視線を上げた拍子に唇を塞がれたからだ。
柔らかく啄まれて、息を飲むとまたキスされる。
胸が・・・震える・・・
ぎゅうっと握りしめた真里菜の拳を包み込んで、河野は確かめるように二度三度と唇の表面を自分のそれで優しくなぞった。
柔らかい羽のようなキスの後、頬を滑る指の感触で我に返った。
だから、その優しい顔をいますぐやめて欲しい。
「河野さ・・な、ん・・・」
「この前の賭けだけど、俺の勝ちでいいな?」
「ダメです!」
2か月前の恒例の飲み会で口論になった(向こうはこっちが一方的に怒ったと思っているけれど)真里菜が一方的に突きつけた絶交宣言。
恋心を見透かされた恥ずかしさと、悔しさでわやくちゃの頭で紡いだ陳腐な台詞。
『こ、河野さんの事なんて好きじゃありません!勘違いしないで!もう飲み会には来ませんし、連絡もしませんっ!』
『ふーん・・・いいよ・・・じゃあ、』
あっさり言ってのけた河野の穏やかな表情が悔しくて、そのまま店を飛び出した。
案の定、彼からの連絡は無くて、そのまま二か月前が経過して、そして、昨夜の事件が起こった。
連絡しないと言い切っておきながら、電話を架けたのは真里菜だ。
完全にこの勝負は真里菜の負けである。
「あれはっ酔ってた勢いでっ!相手も分からずに架けた電話なんで無効です!」
「迷わず俺に電話したって、望月さんは言ってたけどなあ。ちゃんと俺の名前呼んでたし」
望月さんのばか!!
大好きな憧れの先輩だけれど今は敵よと思わず心で罵倒する。
それより、何より、無意識にでも電話した自分が一番の大馬鹿者だ。
「あの日は酔ってなかったから覚えてるだろ?お前から連絡して来たら、俺の好きにするって言ったよね?」
「でっでも、酔ってたから・・・」
真里菜の必死の抵抗に、片眉を上げて河野はちょっと考えるように黙りこむ。
良かった・・・最後通牒は免れたみたい・・
肩を力を抜いた途端、今度は頬にキスされた。
「こ、これから振る相手にキスなんてしないで!」
くすぐったいような感触にうずくまりたくなる。
けれど、背中に回った逞しい腕はそれを許さない。
思い出して切なくなるだけの記憶なんて欲しくないのに、唇の感触がいつまでも離れない。
彼の髪が頬を撫でる。
目を閉じたら、耳元で小さな囁きが聞こえた。
「振るわけないだろ。恋愛するのは後でいいから、とりあえず、結婚しよう」
爆弾は落とされた。
今度こそ真里菜は気を失いそうになる。
なんで!?なにが!?
渾身の力で腕を解こうとしたら、信じられないほど強く抱きしめられた。
もう、賭けに勝った負けたの話じゃない。
私のこれから先の人生が・・・・右に転ぶか左に転ぶかの一大事だ。
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